2002/05/13(Mon)
●「山」-神聖なる“場”
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。
① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。
②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。
③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。
④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。
●民間伝承の“山の神”
“山の神”といっても、現代人の日常生活においては、馴染みが少ないようです。しかし、ちょっと前までは山村地帯を中心に、民俗の神々のなかでも最も有力な神さまでした。
山そのものに宿る神さま、山を住まいとする霊的なものと人々は共に暮らしてきたのでした。山は「様々な実り」を与えてくれるし、稲作にとって欠かすことの出来ない「水」も山から流れ、自分たちの生活を支える根源、総ての生産の元は山にあったのでした。
まさしく、あらゆるものを生み出してくれる“母なる山”でした。そこから“山の神”は「お産の神」としても信仰されました。
そして、“山の神”は、春になると里に下りて「田の神」となり、稲の成育と収穫を見守って、秋になると役目を終えて山へ帰って行きました。これは日本人の “祖霊信仰”に関係があり、我が国では、人は死後、その霊魂は神となり、生きている子孫を守ってくれると信じられていました。つまり、農民にとっての“山 の神”は、多くの場合、先祖代々の祖霊でもあったようです。
又、山で暮らす猟師、きこりたちにとっての“山の神”は、その山の地主神であり、山の守護神に他なりません。
いずれにせよ、昔は最も身近で、すべての生活に関わりが深かったのが“山の神”だったのです。
● 大山祇神(おおやまつみのかみ)
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神から生まれた神で、各地の山の神の総帥・親神ともいうべき尊い神さまです。
ま たの名を「和多志大神(わたしのおおかみ)」ともいい、“大山津見神”とも書きます。そして、“野の神”である「鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)」 〈「野椎神(のづちのかみ)」〉と共に、山に係わる神々を産みました。他にも独力でお生みになられた「木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)は殊 に有名です。
その姫神が天孫(てんそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)〈山 幸彦(やまさちひこ)として有名〉をお生みになられた時、父神の大山津見神は大喜びして、さっそく“天のたむけ酒”を造り、天地の神々に供してお祝いしま した。これを酒造りの始まりとして、父神・大山津見神を“酒解神(さかどきのかみ)”、姫神・木花開耶媛命を“酒解子神(さかどきのこがみ)”と呼んで、 「酒造りの祖神」としています。
★“宮地神仙道”と大山津見神
土佐郡潮江村(現高知市天神)の「潮江天満宮(うしおえてんまん ぐう)」の社家である宮地家の常盤(ときわ、道号・布留部〈ふるべ〉1818~1890)・堅磐(かきわ、道号・水位〈すいい〉1852~1904)父子 が唱えた平田篤胤(ひらたあつたね)の神道説を継承した玄学(げんがく、道教)色の強い神道説。
宮地父子は肉体を持ったまま、独特の脱魂法に よって神界・神仙界を往来したという。その知見と平田神道によってできあがったものが宮地神仙道です。水位は十歳頃から神仙界に出入りしたといいます。顕 界(この世)と幽界(あの世)との間を自由に往来し、大山津見神の寵愛を受け、その取り持ちによって、ある神界の主宰神という地位にあった道教の通称「少 童君(しょうどうくん)」=少名彦那神(すくなひこなのかみ)に謁見することができるようになり、五十三歳で帰幽するまで数百回にわたって神仙界へ往来し たとされます。現在でも神仙道系の多くの教団に、宮地神道の霊統が引き継がれています。
●木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)
大山津見神の末娘であり、生まれつき容姿端麗なるがゆえに、桜花にたとえられこの名がついたとされます。霊峰・富士山をご神体と仰ぐ関東地方各地の浅間神社(せんげんじんじゃ)の御祭神としても有名です。
高天原より天孫・瓊瓊杵命(てんそんににぎのみこと)が、日向の高千穂の峰に天降りした際にこの女神を見初めました。そして、命よりの申し込みにより父 神・大山津見命はね秀麗な木花開耶媛命と容姿の良くない姉の石長比売命(いわながひめ、石のように不変で長寿であることの神格)を嫁がせましたが、姉の石 長比売命は帰されました。
やがて、木花開耶媛命は、八尋殿(やひろどの)という産屋で、燃えさかる炎の中、火照命(ほでりのみこと、海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)の三柱の子神をお産みになられた、という神話が伝わっています。
●修験道
ひ 日本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
●富士信仰
我が国では古代より、秀麗な姿をしている高山には神が宿るものとされてきました。中でも日本一の高嶽で最も美しい山とされてきた富士山は殊に神聖視されてきました。
フジが「不死」に音通することから、平安初期より神仙の棲まわれる霊山として崇められました。やがて、山岳仏教により、富士山に坐す神は“仙元大菩薩(せ んげんだいぼさつ)”〈あるいは浅間明神(せんげんみょうじん)、富士権現(ふじごんげん)〉ともされました。その「センゲン」という訓みの中には、「仙 人の元締め(もとじめ)」という意味も含まれていたらしいということです。
特に、江戸時代においては富士信仰が最も盛んで、“富士講(ふじこ う)”と呼ばれる登拝組織が民衆の間に爆発的な広がりを見せ、八百八講(はっぴゃくやこう)とうたわれるほど数多くの講が組織されました。一つの講の講員 数は千人以上、四年から五年の年限で講が立てられたといいます。
有名な食行身禄(じきぎょうみろく)などの大先達(だいせんだつ)が現れ。「世 直し」と結びつき、まるで現在の新興宗教の走りとも言える熱狂ぶりでした。現に明治に入って、扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教、丸山(まるやま)教 などの教派神道の他、多くの仏教系教団を生んだ母体となったのがこの“富士講”なのです。
★富士塚(ふじづか)
富士講の広がり とともに、江戸町内には、富士を模造して盛り土した小型の人造富士とでもいった“富士塚”が造られました。経済的な理由や体が丈夫でないために富士の山に 行きたくても行けない人たちは、こうした江戸町内の“富士塚”や“富士社(しゃ)”を巡って、富士参りをしました。
七月一日の富士山の山開きには、これらの富士塚も山開きをします。この日は、“七浅間参り”といって、揃いの装束で講近くの七つの富士塚、富士社を巡拝しました。この習俗は、現在でも、東京、神奈川、埼玉など各地の富士講に受け継がれています。
★富士講六代目行者・食行身禄(じきぎょうみろく)と“世直し”信仰
講は、先達(せんだつ)、講元(こうもと)、世話人の三役で運営されます。それぞれの講の人気はリ-ダ-格である先達の力量、人柄で決まったといいます。 富士登山七回で先達になれますが、それでは講員は集まらず、三十三度の大願成就したような大先達に信者は集まったといいます。先達は職業ではないが修行者 の力量が必要だったといいます。
「ロク」という言葉には、「水平、平ら」の意味があり、大工が水平を計ることを「ロクを見る」といいます。身禄 の説教には「身をロクにして」「心をロクにして」という言葉がよく出てきます。人の福を羨んだり、人を押しのけて出世したがったり、見栄を張ったりするこ とは、すべて心がロクでもない。人間は心をロクにして家職に励めば「生み増す」といって、身分も生活も向上するし、また「生まれ増し」といって、来世にお いて今生より良き身分境遇に生まれてくると教えました。士農工商の身分制度が厳しく、貧富の差が激しかった時代だけに、この身禄の説教は大衆の心の支えと なったようです。
享保十八年、米の買い占めなどにより米価が高騰した為、民衆による“打ち壊し”が起こり、この事件を聞いて心を痛めた身禄は、 入定することを決意し、富士山の烏帽子岩(えぼしいわ)の下で断食行に入った。「これよりして我が、しんのおあらため役人となってながめ申し」として入滅 した。その遺骸はミイラ化して烏帽子岩の身禄神社に秘蔵されていると伝えられています。
この身禄入定の知らせは、江戸の人々の間の危機意識の高まりと相まって、当時のトップニュ-スとなり、富士講の数をさらに増加させました。
●木曽の御嶽(おんたけ)さん
「木曽の御嶽さん」と呼び親しまれてきた木曽御嶽山は、濃尾平野を潤す木曽川の源流をなします。この御嶽山を、水減をつかさどる水分神(みくまりのかみ) の坐す山として日々の心のよりどころとしていた濃尾平野に住む人々は、つい近年まで、朝起きると、まず山を拝む習慣を持っていたといいます。
修験道の影響を受け、主神には“王御嶽座王権現(おうのみたけざおうごんげん)”と称し、集団登拝が始まったのは室町時代だといわれています。しかし、百日ないし七十五
日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を終えたものでなければ登拝は許されず、山麓周辺の限られた人々が登拝するのみでした。それを水行だけの軽精進による登拝と、他国の人にも一般開放する旨の運動を押し進めたのが、修験者・覚明(かくみょう)でした。天明二年のことです。
さらに寛政四年、覚明が開いた「黒沢口」の登山道とは別に、地元民の協力のもとに「王滝口」登山道を開いたのが、これまた有名な普寛(ふかん)行者です。 普寛は江戸を中心に関東地方へと御嶽信仰の布教につとめ、伊勢講や金比羅(こんぴら)講にならって御嶽講を結成しました。幕末期には、全国に大小五百余も の講があったといいます。
それが明治期に入って、御嶽教、神習教、神道大成教、神道修成派などの“教派神道”
に組み込まれることとなりました。その他に修験教団に属しているものもかなりあります。
★御座立て(おざたて)
修験道は、シャ-マニズム、つまり、神憑りや霊能とは切っても切れない関係にあります。神仏や霊といった超自然的存在と直接に交流し、何らかの働きかけをすることは、修験者の修行や活動において、歴史的に見られることでした。
中でも“憑り祈祷(よりきとう)”は、修験者が“憑坐(よりまし)”に神仏や霊を憑けて託宣をさせたり、問答をしたりするもので(巫女や稚児〈ちご〉がその役となった)、御嶽信仰の“御座立て”がこれに当たり、現在も行われています。
神霊が憑く「中座(なかざ)」、座をつかさどり神霊と問答する「前座(まえざ)」、さらに四人の「脇座(わきざ)」、二人の「介添人(かいぞえにん)」を含めた八人で行うのが正式とされています。
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。
① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。
②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。
③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。
④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。
●民間伝承の“山の神”
“山の神”といっても、現代人の日常生活においては、馴染みが少ないようです。しかし、ちょっと前までは山村地帯を中心に、民俗の神々のなかでも最も有力な神さまでした。
山そのものに宿る神さま、山を住まいとする霊的なものと人々は共に暮らしてきたのでした。山は「様々な実り」を与えてくれるし、稲作にとって欠かすことの出来ない「水」も山から流れ、自分たちの生活を支える根源、総ての生産の元は山にあったのでした。
まさしく、あらゆるものを生み出してくれる“母なる山”でした。そこから“山の神”は「お産の神」としても信仰されました。
そして、“山の神”は、春になると里に下りて「田の神」となり、稲の成育と収穫を見守って、秋になると役目を終えて山へ帰って行きました。これは日本人の “祖霊信仰”に関係があり、我が国では、人は死後、その霊魂は神となり、生きている子孫を守ってくれると信じられていました。つまり、農民にとっての“山 の神”は、多くの場合、先祖代々の祖霊でもあったようです。
又、山で暮らす猟師、きこりたちにとっての“山の神”は、その山の地主神であり、山の守護神に他なりません。
いずれにせよ、昔は最も身近で、すべての生活に関わりが深かったのが“山の神”だったのです。
● 大山祇神(おおやまつみのかみ)
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神から生まれた神で、各地の山の神の総帥・親神ともいうべき尊い神さまです。
ま たの名を「和多志大神(わたしのおおかみ)」ともいい、“大山津見神”とも書きます。そして、“野の神”である「鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)」 〈「野椎神(のづちのかみ)」〉と共に、山に係わる神々を産みました。他にも独力でお生みになられた「木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)は殊 に有名です。
その姫神が天孫(てんそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)〈山 幸彦(やまさちひこ)として有名〉をお生みになられた時、父神の大山津見神は大喜びして、さっそく“天のたむけ酒”を造り、天地の神々に供してお祝いしま した。これを酒造りの始まりとして、父神・大山津見神を“酒解神(さかどきのかみ)”、姫神・木花開耶媛命を“酒解子神(さかどきのこがみ)”と呼んで、 「酒造りの祖神」としています。
★“宮地神仙道”と大山津見神
土佐郡潮江村(現高知市天神)の「潮江天満宮(うしおえてんまん ぐう)」の社家である宮地家の常盤(ときわ、道号・布留部〈ふるべ〉1818~1890)・堅磐(かきわ、道号・水位〈すいい〉1852~1904)父子 が唱えた平田篤胤(ひらたあつたね)の神道説を継承した玄学(げんがく、道教)色の強い神道説。
宮地父子は肉体を持ったまま、独特の脱魂法に よって神界・神仙界を往来したという。その知見と平田神道によってできあがったものが宮地神仙道です。水位は十歳頃から神仙界に出入りしたといいます。顕 界(この世)と幽界(あの世)との間を自由に往来し、大山津見神の寵愛を受け、その取り持ちによって、ある神界の主宰神という地位にあった道教の通称「少 童君(しょうどうくん)」=少名彦那神(すくなひこなのかみ)に謁見することができるようになり、五十三歳で帰幽するまで数百回にわたって神仙界へ往来し たとされます。現在でも神仙道系の多くの教団に、宮地神道の霊統が引き継がれています。
●木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)
大山津見神の末娘であり、生まれつき容姿端麗なるがゆえに、桜花にたとえられこの名がついたとされます。霊峰・富士山をご神体と仰ぐ関東地方各地の浅間神社(せんげんじんじゃ)の御祭神としても有名です。
高天原より天孫・瓊瓊杵命(てんそんににぎのみこと)が、日向の高千穂の峰に天降りした際にこの女神を見初めました。そして、命よりの申し込みにより父 神・大山津見命はね秀麗な木花開耶媛命と容姿の良くない姉の石長比売命(いわながひめ、石のように不変で長寿であることの神格)を嫁がせましたが、姉の石 長比売命は帰されました。
やがて、木花開耶媛命は、八尋殿(やひろどの)という産屋で、燃えさかる炎の中、火照命(ほでりのみこと、海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)の三柱の子神をお産みになられた、という神話が伝わっています。
●修験道
ひ 日本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
●富士信仰
我が国では古代より、秀麗な姿をしている高山には神が宿るものとされてきました。中でも日本一の高嶽で最も美しい山とされてきた富士山は殊に神聖視されてきました。
フジが「不死」に音通することから、平安初期より神仙の棲まわれる霊山として崇められました。やがて、山岳仏教により、富士山に坐す神は“仙元大菩薩(せ んげんだいぼさつ)”〈あるいは浅間明神(せんげんみょうじん)、富士権現(ふじごんげん)〉ともされました。その「センゲン」という訓みの中には、「仙 人の元締め(もとじめ)」という意味も含まれていたらしいということです。
特に、江戸時代においては富士信仰が最も盛んで、“富士講(ふじこ う)”と呼ばれる登拝組織が民衆の間に爆発的な広がりを見せ、八百八講(はっぴゃくやこう)とうたわれるほど数多くの講が組織されました。一つの講の講員 数は千人以上、四年から五年の年限で講が立てられたといいます。
有名な食行身禄(じきぎょうみろく)などの大先達(だいせんだつ)が現れ。「世 直し」と結びつき、まるで現在の新興宗教の走りとも言える熱狂ぶりでした。現に明治に入って、扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教、丸山(まるやま)教 などの教派神道の他、多くの仏教系教団を生んだ母体となったのがこの“富士講”なのです。
★富士塚(ふじづか)
富士講の広がり とともに、江戸町内には、富士を模造して盛り土した小型の人造富士とでもいった“富士塚”が造られました。経済的な理由や体が丈夫でないために富士の山に 行きたくても行けない人たちは、こうした江戸町内の“富士塚”や“富士社(しゃ)”を巡って、富士参りをしました。
七月一日の富士山の山開きには、これらの富士塚も山開きをします。この日は、“七浅間参り”といって、揃いの装束で講近くの七つの富士塚、富士社を巡拝しました。この習俗は、現在でも、東京、神奈川、埼玉など各地の富士講に受け継がれています。
★富士講六代目行者・食行身禄(じきぎょうみろく)と“世直し”信仰
講は、先達(せんだつ)、講元(こうもと)、世話人の三役で運営されます。それぞれの講の人気はリ-ダ-格である先達の力量、人柄で決まったといいます。 富士登山七回で先達になれますが、それでは講員は集まらず、三十三度の大願成就したような大先達に信者は集まったといいます。先達は職業ではないが修行者 の力量が必要だったといいます。
「ロク」という言葉には、「水平、平ら」の意味があり、大工が水平を計ることを「ロクを見る」といいます。身禄 の説教には「身をロクにして」「心をロクにして」という言葉がよく出てきます。人の福を羨んだり、人を押しのけて出世したがったり、見栄を張ったりするこ とは、すべて心がロクでもない。人間は心をロクにして家職に励めば「生み増す」といって、身分も生活も向上するし、また「生まれ増し」といって、来世にお いて今生より良き身分境遇に生まれてくると教えました。士農工商の身分制度が厳しく、貧富の差が激しかった時代だけに、この身禄の説教は大衆の心の支えと なったようです。
享保十八年、米の買い占めなどにより米価が高騰した為、民衆による“打ち壊し”が起こり、この事件を聞いて心を痛めた身禄は、 入定することを決意し、富士山の烏帽子岩(えぼしいわ)の下で断食行に入った。「これよりして我が、しんのおあらため役人となってながめ申し」として入滅 した。その遺骸はミイラ化して烏帽子岩の身禄神社に秘蔵されていると伝えられています。
この身禄入定の知らせは、江戸の人々の間の危機意識の高まりと相まって、当時のトップニュ-スとなり、富士講の数をさらに増加させました。
●木曽の御嶽(おんたけ)さん
「木曽の御嶽さん」と呼び親しまれてきた木曽御嶽山は、濃尾平野を潤す木曽川の源流をなします。この御嶽山を、水減をつかさどる水分神(みくまりのかみ) の坐す山として日々の心のよりどころとしていた濃尾平野に住む人々は、つい近年まで、朝起きると、まず山を拝む習慣を持っていたといいます。
修験道の影響を受け、主神には“王御嶽座王権現(おうのみたけざおうごんげん)”と称し、集団登拝が始まったのは室町時代だといわれています。しかし、百日ないし七十五
日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を終えたものでなければ登拝は許されず、山麓周辺の限られた人々が登拝するのみでした。それを水行だけの軽精進による登拝と、他国の人にも一般開放する旨の運動を押し進めたのが、修験者・覚明(かくみょう)でした。天明二年のことです。
さらに寛政四年、覚明が開いた「黒沢口」の登山道とは別に、地元民の協力のもとに「王滝口」登山道を開いたのが、これまた有名な普寛(ふかん)行者です。 普寛は江戸を中心に関東地方へと御嶽信仰の布教につとめ、伊勢講や金比羅(こんぴら)講にならって御嶽講を結成しました。幕末期には、全国に大小五百余も の講があったといいます。
それが明治期に入って、御嶽教、神習教、神道大成教、神道修成派などの“教派神道”
に組み込まれることとなりました。その他に修験教団に属しているものもかなりあります。
★御座立て(おざたて)
修験道は、シャ-マニズム、つまり、神憑りや霊能とは切っても切れない関係にあります。神仏や霊といった超自然的存在と直接に交流し、何らかの働きかけをすることは、修験者の修行や活動において、歴史的に見られることでした。
中でも“憑り祈祷(よりきとう)”は、修験者が“憑坐(よりまし)”に神仏や霊を憑けて託宣をさせたり、問答をしたりするもので(巫女や稚児〈ちご〉がその役となった)、御嶽信仰の“御座立て”がこれに当たり、現在も行われています。
神霊が憑く「中座(なかざ)」、座をつかさどり神霊と問答する「前座(まえざ)」、さらに四人の「脇座(わきざ)」、二人の「介添人(かいぞえにん)」を含めた八人で行うのが正式とされています。
道開き at 2002/05/13(Mon) 22:10
2002/05/08(Wed)
●様々な神仏を祀(まつ)る“庚申塔(こうしんとう)”
道ばた、村のお堂の前、神社やお寺の境内など、地域社会のあちこちに立つ“庚申塔(こう しんとう)”。“庚申塔さん”がもてはやされた時代は干支(えと、かんし)で年月日を表していた江戸時代です。今では、すっかり西暦(せいれき)が定着 し、大方の人にとっては馴染みの薄いものになってしまいました。しかし、昔は道祖神(どうそじん)と並んで民間信仰の筆頭に挙げられるほど流行していたの でした。
庚申さんには、「宗教としての体系だった教義がなく」、いつごろ、誰によって始められたのかもはっきりしません。「信仰対象も種々雑多で、神さまや仏さまが様々に祀られて」います。
●陰陽五行説 - 陰陽道のル-ツ -
この庚申信仰は、陰陽道に由来します。陰陽道のル-ツは古代中国にあり、日本には6世紀頃に伝わりました。
古代中国では、神々を含む、この世の総て(森羅万象)が、陰と陽との二元の連関によって説明が出来るものであるとされ《陰陽説》、それが「四象(ししょ う)」に、さらに「八卦(はっけ)へと展開する“易(えき)”の思想の元となりました。また、この「陰陽」、「八卦」の思想とは別に、万物・万象を「木・ 火・土・金・水」という“五つの気”の働き「五行」に還元する思想《五行説》も生み出され、やがて二つの説が結びついて『陰陽五行説』が成立しました。
陰陽道は、この『陰陽五行説』を、森羅万象すべての事象の意味、働き、未来までも読み解くための記号体系として、天文、地理、暦、医学、易占・・・へと展 開をみました。つまり、陰陽道の基礎を成す「陰陽」「八卦」「五行」の思想は、いわば中国の文化をまるごと飲み込んだかたちで展開したのでした。
古代日本には、天文と占筮(せんぜい)を中心とする占術と、それらをもとにした呪術の方面での活用が中心となって伝わり、日本古来の信仰や、密教などとも 習合し、日本オカルティズムの底流として、神道、仏教、修験道などの一部分をなす民族の神秘思想に深く浸透したのでした。
※特に神道では、「吉田神道」などの中世神道に強く影響し、近世の「土御門(つちみかど)神道」、そして、現在の神社神道、神道系新宗教にも様々な形で影響を残しています。
●“陰陽師・安倍晴明”伝説
あらゆる占術、呪術を使い、式神(しきがみ)を自在に使役したとされる実在の人物。『今昔(こんじゃく)物語』などに、様々な伝説が残されている。京都・晴明神社等の土御門神道系の神社に御祭神として祀られています。
★イザナギ流
“いざなぎ流”とは、高知県香美郡物部村に伝わる民間の陰陽道祭祀の総称です。律令時代においては、国家が、陰陽寮(おんみょうりょう)を設置し、官僚機 構に組み込んで独占して管理を行いました。陰陽博士(おんみょうのはくじ)、暦博士(りゃくのはくじ)、天文博士(てんもんのはくじ)と呼ばれる専門の官 吏がその任に当たりました。やがて、時代が下るに連れて、公家、武家、そして、民間へと様々なかたちで漏洩して行きました。その民間陰陽道といったものを 未だ色濃く伝えているのが“いざなぎ流”です。米を使った占い「米占(ふまうら)」とか、数珠による「籤(くじ)」と呼ばれる占いが行われたり、「呪詛祓 い(すそはらい)」、「家祈祷(やぎとう)」、「式神(しきがみ)使い」といった儀式が“太夫(たゆう)”と呼ばれる職能的宗教者によって現在でも行われ ています。
●陰陽道と「年中行事」
陰陽道をル-ツとする年中行事は非常に多く、次のものがそれに当たります。
・ 元旦の四方拝(しほうはい)・恵方詣り(えほうまいり)・書き初め(かきぞめ)・屠蘇(とそ)・七草・どんど焼き・節分の追難式(ついなしき)・雛(ひ な)祭り・虫送り・端午の節句・夏越(なごし)の祓い・御中元(おちゅうげん)・重陽(ちょうよう)の節句・七五三・大祓(おおはらい)
これらは、いずれも陰陽道の予祝(よしゅく)、禁厭(きんえん)、祓除(ふつじょ)、厄除け(やくよけ)、延命招福の呪法と関係しています。
●陰陽道と呪詛(すそ、呪い)
陰陽道に貫かれている一つのセオリ-(理論)は、「この世のあらゆるものは陰と陽との二元によって成り立っている」ということである。
よって、人の心とてもその例外ではなく、陰の部分と陽の部分とからなり、常に調和・対立し、互いに影響しあっているという。そして、人の世は、それら一人一人の陰と陽の心が複雑に絡み合い、互いに影響しあって成り立っているという。
“呪い心”は、人の持つ「陰の心」の最たるものであり、この精神作用の周囲に及ぼす影響たるや凄まじいものがあるといわれています。この精神作用の凄まじ さを端的に現した言葉に、「人を呪わば穴二つ」という諺(ことわざ)があります。人を呪う陰の心は、その心ゆえに陰の事物を引き寄せてしまい、結局は、人 を呪う心が自分自身を呪う結果を招くということになるというのです。それを逆説的に言えば、“愛の念”は愛を呼び、“感謝の念”は感謝の心を呼び、強いて はそのような良い事柄をも呼び寄せるということになるようです。こういった、“呼び寄せる”という意味からいうと、「類は友を呼ぶ」という諺も一つの真理 を現しているようです。これは、昔ながらのあらゆる宗教においても、ごく新しいスピリッチャリズム(心霊科学)や神智学といったもの、今はやりの波動学な どの基本理論でもあり、物理や化学などの自然科学の理論とも相反するものではないようです。
※呪詛(すそ)には、動物の魂魄(こんぱく)を操作して相手に飛ばす蠱毒(こどく)
〈特定の人・家に憑くとされたいわゆる“憑きもの”のこと。狐、蛇(長縄、ながなわ)、狸(たぬき)、猿(さるがみ)、犬(犬神)など。〉と、人形(ひとかた)や相手の持ち物を使用する厭魅(えんみ)の二通りあるとされます。
そして、“憑きもの落とし”に活躍した陰陽師や密教僧、修験者もいれば、一方では、相手を呪ったり、“呪詛返し”を行ったりといった権力争いの裏側で繰り広げられた呪術合戦などの闇の歴史も残っています。
●六十日に一度めぐってくる縁日
信仰対象(手を合わせる神仏)については特にこだわらない代わりに、庚申信仰がこだわっているのは“縁日”です。六十日に一度巡ってくる干支(えと・かんし)でいう「庚申(かのえさる)の日」には特別な意味があるとしています。
昔は、十干(じっかん、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・申・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせで年・月・日・刻を現していました。
○ 庚(かのえ・こう)は、陰陽五行でいうと「金の陽」、申(さる・しん)も「金の陽」であり、この日は金の気が重なって、天地に金の気が充満して冷ややかに なり、人心も冷酷になりやすいという意から、天地万物の気は、庚申の日に変革されるとされ、最も重要な忌日(いみび)とされた。
○「還暦(かんれき)」の祝いは、生まれ年から干支が一巡して元に戻ってきたというので、六十年も長生きできたことを喜ぶと同時に、生まれ変わったつもりで、一からやりなおすなどと気分を新たにするもの。
このように、干支で暮らしていた時代には「月日のめぐりに人為を越えた支配的なものを感じていた」ことにより、“庚申の日”にも特別な意味があるとされたのでした。
★暦(れき、こよみ)
暦は、日常生活において歳月や季節の移り変わりを知る上で、とても重要な役割を果たしていますが、それはまた、永遠の時の流れを干支と九星(陰陽と五行)で分類し、システム化したものといった表現も可能です。
● 庚申講(こうしんこう)
- ねむらない夜「守庚申(もりこうしん)」-
六十日に一度の割合で“庚申さまの日”が訪れると、人々は寄り集まって庚申さまを拝んで、花や線香を供え、燈明(とうみょう)を灯して一晩を過ごします。 勤行(ごんぎょう)をしたり、雑談をしながら飲んだり食べたりして親睦を兼ねて一晩を明かします。これを組織的に行うグル-プを“庚申講”といい、ほとん ど村の“寄り合い”と変わらないのですが、これが庚申信仰の主要なる宗教的行為となります。というのは、とにかく、庚申の夜は眠ってはいけないということ が、唯一の教えだからです。こうして自分の身体から「三尸虫(さんしちゅう)」という虫がでていかないように番をするのだというのです。
★ 三尸虫(さんしちゅう)
三 尸虫(さんしちゅう)というのは、道教の説で、すべての人間の体内におり、庚申の日に限って、人間が寝ている間に天上界に上り、司命(しめい)神にその人 間のすべての行いを逐一報告するとされています。司命神は、その報告をもとに判断し、悪行が多ければそれだけ寿命を縮めるとされました。そこで、三尸(さ んし)の虫の報告を防ぐための手っ取り早い方法として、三尸虫(さんしちゅう)を身体から出さないように眠らないで過ごすということが行われたのでした。
● 庚申塔(こうしんとう)
路 傍でよく見かける庚申塔の多さは、庚申信仰の隆盛を物語っています。庚申塔とは、①「庚申の年」ごとに“供養”の意味を込めて建てられたり、②“祈願成就 ”を込めて建てられたものです。③塔を築く時、酒つぼを下に埋めて、六十年ごとにこれを取り替えるという風習もあります。
◎形態は千差万別 塚、自然石、宝塔、灯籠(とうろう)、石祀(せきし)
◎刻まれる文字 「庚申」「庚申塔」「千庚申」「七庚申」「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」「それぞれの祭神名」
◎神像 青面金剛、猿田彦、帝釈天、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、道祖神、仁王、山王(さんのう)、田の神
★ つかわしめの猿
庚 申といえば、あの「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿を庚申堂に安置したり。庚申塔に刻んだりしているのをよく見かけます。この猿は、庚申さまの“つか わしめの猿”とされています。“つかわしめ”というのは、神仏の使いをする動物(霊)のことで、例えばお稲荷さんの狐などがこれに当たります。
この三猿が、青面金剛の脇役ではなく、庚申尊そのものとなっているところもあります。
●青面金剛(しょうめんこんごう)
種々雑多な神仏を拝むのが庚申信仰の特徴ですが、一般に庚申さまとして知られているのは、あの手がいっぱいあつて恐ろしい形相の「青面金剛」です。
青面金剛は、仏さまには違いありませんが、得体の知れない、いわゆる雑尊(ざっそん)で、仏像百科などにも載っていない場合もあります。よって、お寺の本堂などで見られる仏さまではありません。
だいたい一面六臂(いちめんろっぴ、四臂、八臂の場合もある。六臂とは手の数が六本あること。)で、頭の毛は逆立って、人を威嚇(いかく)するようなすさ まじい形相をしています。六本の手にはそれぞれ、剣、やり、弓などを持ち、うち一本では、手を合わせた小さい人間の髪をむずとつかまえており、腰、腕、頭 に大蛇をからませ、全身青色のおどろおどろしい姿をしています。
もともと鬼病を流行させる神さまだったとされています。やがては病魔悪鬼を取り除く時に祀るようになりました。
● 猿田彦命(さるたひこのみこと)
庚 申堂は仏教施設なので、仏像である青面金剛が祀られますが、庚申社には神道ということで、“猿田彦命”が祀られています。猿田彦という神さまは、国つ神の 一柱(ひとはしら)で、天孫ニニギノ命が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに、この世、日本)に降臨したときに、天之八衢(あめのやちまた、天の道が多 方面に分かれているところ)で、上は高天の原を照らし、下は豊葦原中国を照らして立っていたという、たいへん神威の絶大なる神さまで、そしてね天孫を日向 まで先導し、道案内をしたとされる神さまです(よって、“道開きの神”と称えられています)。身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくその輝くさ まは「ほおずき」の如くであつたといいます。どこの神社でも、祭礼の神輿(みこし)の先導は、この猿田彦の面を付けた者が行います。
この猿田彦命がなぜ庚申さまになったかははっきりしませんが、道祖神(どうそじん)とは実は猿田彦命であったという俗説が古くからあり、道祖神信仰と庚申信仰が結びついて祀られるようになったとされています。
道ばた、村のお堂の前、神社やお寺の境内など、地域社会のあちこちに立つ“庚申塔(こう しんとう)”。“庚申塔さん”がもてはやされた時代は干支(えと、かんし)で年月日を表していた江戸時代です。今では、すっかり西暦(せいれき)が定着 し、大方の人にとっては馴染みの薄いものになってしまいました。しかし、昔は道祖神(どうそじん)と並んで民間信仰の筆頭に挙げられるほど流行していたの でした。
庚申さんには、「宗教としての体系だった教義がなく」、いつごろ、誰によって始められたのかもはっきりしません。「信仰対象も種々雑多で、神さまや仏さまが様々に祀られて」います。
●陰陽五行説 - 陰陽道のル-ツ -
この庚申信仰は、陰陽道に由来します。陰陽道のル-ツは古代中国にあり、日本には6世紀頃に伝わりました。
古代中国では、神々を含む、この世の総て(森羅万象)が、陰と陽との二元の連関によって説明が出来るものであるとされ《陰陽説》、それが「四象(ししょ う)」に、さらに「八卦(はっけ)へと展開する“易(えき)”の思想の元となりました。また、この「陰陽」、「八卦」の思想とは別に、万物・万象を「木・ 火・土・金・水」という“五つの気”の働き「五行」に還元する思想《五行説》も生み出され、やがて二つの説が結びついて『陰陽五行説』が成立しました。
陰陽道は、この『陰陽五行説』を、森羅万象すべての事象の意味、働き、未来までも読み解くための記号体系として、天文、地理、暦、医学、易占・・・へと展 開をみました。つまり、陰陽道の基礎を成す「陰陽」「八卦」「五行」の思想は、いわば中国の文化をまるごと飲み込んだかたちで展開したのでした。
古代日本には、天文と占筮(せんぜい)を中心とする占術と、それらをもとにした呪術の方面での活用が中心となって伝わり、日本古来の信仰や、密教などとも 習合し、日本オカルティズムの底流として、神道、仏教、修験道などの一部分をなす民族の神秘思想に深く浸透したのでした。
※特に神道では、「吉田神道」などの中世神道に強く影響し、近世の「土御門(つちみかど)神道」、そして、現在の神社神道、神道系新宗教にも様々な形で影響を残しています。
●“陰陽師・安倍晴明”伝説
あらゆる占術、呪術を使い、式神(しきがみ)を自在に使役したとされる実在の人物。『今昔(こんじゃく)物語』などに、様々な伝説が残されている。京都・晴明神社等の土御門神道系の神社に御祭神として祀られています。
★イザナギ流
“いざなぎ流”とは、高知県香美郡物部村に伝わる民間の陰陽道祭祀の総称です。律令時代においては、国家が、陰陽寮(おんみょうりょう)を設置し、官僚機 構に組み込んで独占して管理を行いました。陰陽博士(おんみょうのはくじ)、暦博士(りゃくのはくじ)、天文博士(てんもんのはくじ)と呼ばれる専門の官 吏がその任に当たりました。やがて、時代が下るに連れて、公家、武家、そして、民間へと様々なかたちで漏洩して行きました。その民間陰陽道といったものを 未だ色濃く伝えているのが“いざなぎ流”です。米を使った占い「米占(ふまうら)」とか、数珠による「籤(くじ)」と呼ばれる占いが行われたり、「呪詛祓 い(すそはらい)」、「家祈祷(やぎとう)」、「式神(しきがみ)使い」といった儀式が“太夫(たゆう)”と呼ばれる職能的宗教者によって現在でも行われ ています。
●陰陽道と「年中行事」
陰陽道をル-ツとする年中行事は非常に多く、次のものがそれに当たります。
・ 元旦の四方拝(しほうはい)・恵方詣り(えほうまいり)・書き初め(かきぞめ)・屠蘇(とそ)・七草・どんど焼き・節分の追難式(ついなしき)・雛(ひ な)祭り・虫送り・端午の節句・夏越(なごし)の祓い・御中元(おちゅうげん)・重陽(ちょうよう)の節句・七五三・大祓(おおはらい)
これらは、いずれも陰陽道の予祝(よしゅく)、禁厭(きんえん)、祓除(ふつじょ)、厄除け(やくよけ)、延命招福の呪法と関係しています。
●陰陽道と呪詛(すそ、呪い)
陰陽道に貫かれている一つのセオリ-(理論)は、「この世のあらゆるものは陰と陽との二元によって成り立っている」ということである。
よって、人の心とてもその例外ではなく、陰の部分と陽の部分とからなり、常に調和・対立し、互いに影響しあっているという。そして、人の世は、それら一人一人の陰と陽の心が複雑に絡み合い、互いに影響しあって成り立っているという。
“呪い心”は、人の持つ「陰の心」の最たるものであり、この精神作用の周囲に及ぼす影響たるや凄まじいものがあるといわれています。この精神作用の凄まじ さを端的に現した言葉に、「人を呪わば穴二つ」という諺(ことわざ)があります。人を呪う陰の心は、その心ゆえに陰の事物を引き寄せてしまい、結局は、人 を呪う心が自分自身を呪う結果を招くということになるというのです。それを逆説的に言えば、“愛の念”は愛を呼び、“感謝の念”は感謝の心を呼び、強いて はそのような良い事柄をも呼び寄せるということになるようです。こういった、“呼び寄せる”という意味からいうと、「類は友を呼ぶ」という諺も一つの真理 を現しているようです。これは、昔ながらのあらゆる宗教においても、ごく新しいスピリッチャリズム(心霊科学)や神智学といったもの、今はやりの波動学な どの基本理論でもあり、物理や化学などの自然科学の理論とも相反するものではないようです。
※呪詛(すそ)には、動物の魂魄(こんぱく)を操作して相手に飛ばす蠱毒(こどく)
〈特定の人・家に憑くとされたいわゆる“憑きもの”のこと。狐、蛇(長縄、ながなわ)、狸(たぬき)、猿(さるがみ)、犬(犬神)など。〉と、人形(ひとかた)や相手の持ち物を使用する厭魅(えんみ)の二通りあるとされます。
そして、“憑きもの落とし”に活躍した陰陽師や密教僧、修験者もいれば、一方では、相手を呪ったり、“呪詛返し”を行ったりといった権力争いの裏側で繰り広げられた呪術合戦などの闇の歴史も残っています。
●六十日に一度めぐってくる縁日
信仰対象(手を合わせる神仏)については特にこだわらない代わりに、庚申信仰がこだわっているのは“縁日”です。六十日に一度巡ってくる干支(えと・かんし)でいう「庚申(かのえさる)の日」には特別な意味があるとしています。
昔は、十干(じっかん、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・申・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせで年・月・日・刻を現していました。
○ 庚(かのえ・こう)は、陰陽五行でいうと「金の陽」、申(さる・しん)も「金の陽」であり、この日は金の気が重なって、天地に金の気が充満して冷ややかに なり、人心も冷酷になりやすいという意から、天地万物の気は、庚申の日に変革されるとされ、最も重要な忌日(いみび)とされた。
○「還暦(かんれき)」の祝いは、生まれ年から干支が一巡して元に戻ってきたというので、六十年も長生きできたことを喜ぶと同時に、生まれ変わったつもりで、一からやりなおすなどと気分を新たにするもの。
このように、干支で暮らしていた時代には「月日のめぐりに人為を越えた支配的なものを感じていた」ことにより、“庚申の日”にも特別な意味があるとされたのでした。
★暦(れき、こよみ)
暦は、日常生活において歳月や季節の移り変わりを知る上で、とても重要な役割を果たしていますが、それはまた、永遠の時の流れを干支と九星(陰陽と五行)で分類し、システム化したものといった表現も可能です。
● 庚申講(こうしんこう)
- ねむらない夜「守庚申(もりこうしん)」-
六十日に一度の割合で“庚申さまの日”が訪れると、人々は寄り集まって庚申さまを拝んで、花や線香を供え、燈明(とうみょう)を灯して一晩を過ごします。 勤行(ごんぎょう)をしたり、雑談をしながら飲んだり食べたりして親睦を兼ねて一晩を明かします。これを組織的に行うグル-プを“庚申講”といい、ほとん ど村の“寄り合い”と変わらないのですが、これが庚申信仰の主要なる宗教的行為となります。というのは、とにかく、庚申の夜は眠ってはいけないということ が、唯一の教えだからです。こうして自分の身体から「三尸虫(さんしちゅう)」という虫がでていかないように番をするのだというのです。
★ 三尸虫(さんしちゅう)
三 尸虫(さんしちゅう)というのは、道教の説で、すべての人間の体内におり、庚申の日に限って、人間が寝ている間に天上界に上り、司命(しめい)神にその人 間のすべての行いを逐一報告するとされています。司命神は、その報告をもとに判断し、悪行が多ければそれだけ寿命を縮めるとされました。そこで、三尸(さ んし)の虫の報告を防ぐための手っ取り早い方法として、三尸虫(さんしちゅう)を身体から出さないように眠らないで過ごすということが行われたのでした。
● 庚申塔(こうしんとう)
路 傍でよく見かける庚申塔の多さは、庚申信仰の隆盛を物語っています。庚申塔とは、①「庚申の年」ごとに“供養”の意味を込めて建てられたり、②“祈願成就 ”を込めて建てられたものです。③塔を築く時、酒つぼを下に埋めて、六十年ごとにこれを取り替えるという風習もあります。
◎形態は千差万別 塚、自然石、宝塔、灯籠(とうろう)、石祀(せきし)
◎刻まれる文字 「庚申」「庚申塔」「千庚申」「七庚申」「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」「それぞれの祭神名」
◎神像 青面金剛、猿田彦、帝釈天、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、道祖神、仁王、山王(さんのう)、田の神
★ つかわしめの猿
庚 申といえば、あの「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿を庚申堂に安置したり。庚申塔に刻んだりしているのをよく見かけます。この猿は、庚申さまの“つか わしめの猿”とされています。“つかわしめ”というのは、神仏の使いをする動物(霊)のことで、例えばお稲荷さんの狐などがこれに当たります。
この三猿が、青面金剛の脇役ではなく、庚申尊そのものとなっているところもあります。
●青面金剛(しょうめんこんごう)
種々雑多な神仏を拝むのが庚申信仰の特徴ですが、一般に庚申さまとして知られているのは、あの手がいっぱいあつて恐ろしい形相の「青面金剛」です。
青面金剛は、仏さまには違いありませんが、得体の知れない、いわゆる雑尊(ざっそん)で、仏像百科などにも載っていない場合もあります。よって、お寺の本堂などで見られる仏さまではありません。
だいたい一面六臂(いちめんろっぴ、四臂、八臂の場合もある。六臂とは手の数が六本あること。)で、頭の毛は逆立って、人を威嚇(いかく)するようなすさ まじい形相をしています。六本の手にはそれぞれ、剣、やり、弓などを持ち、うち一本では、手を合わせた小さい人間の髪をむずとつかまえており、腰、腕、頭 に大蛇をからませ、全身青色のおどろおどろしい姿をしています。
もともと鬼病を流行させる神さまだったとされています。やがては病魔悪鬼を取り除く時に祀るようになりました。
● 猿田彦命(さるたひこのみこと)
庚 申堂は仏教施設なので、仏像である青面金剛が祀られますが、庚申社には神道ということで、“猿田彦命”が祀られています。猿田彦という神さまは、国つ神の 一柱(ひとはしら)で、天孫ニニギノ命が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに、この世、日本)に降臨したときに、天之八衢(あめのやちまた、天の道が多 方面に分かれているところ)で、上は高天の原を照らし、下は豊葦原中国を照らして立っていたという、たいへん神威の絶大なる神さまで、そしてね天孫を日向 まで先導し、道案内をしたとされる神さまです(よって、“道開きの神”と称えられています)。身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくその輝くさ まは「ほおずき」の如くであつたといいます。どこの神社でも、祭礼の神輿(みこし)の先導は、この猿田彦の面を付けた者が行います。
この猿田彦命がなぜ庚申さまになったかははっきりしませんが、道祖神(どうそじん)とは実は猿田彦命であったという俗説が古くからあり、道祖神信仰と庚申信仰が結びついて祀られるようになったとされています。
道開き at 2002/05/08(Wed) 10:55