白鬚神社 八百万神々
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ja
2002-06-07T09:40+09:00
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告!!!!
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_29.html
以下の順で書き込みを行っています。<br />
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。<br />
<br />
①産土さま(うぶすなさま)<br />
②七福神<br />
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)<br />
④お稲荷さん(おいなりさん)<br />
⑤八幡さま(はちまんさま)<br />
⑥庚申さま(こうしんさま)<br />
⑦山の神<br />
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)<br />
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)<br />
⑩天神さま(てんじんさま)<br />
⑪火の神々<br />
⑫白山神(はくさんさま)<br />
⑬熊野権現(くまのごんげん)<br />
⑭日吉神(ひえさま)<br />
⑮賀茂神(かもさま)<br />
⑯鹿島神(かしまさま)<br />
⑰不動明王(おふどうさま)<br />
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)<br />
⑲産土さま(うぶすなさま)
道開き
2002-06-07T09:40+09:00
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⑲産土さま(うぶすなさま)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_28.html
●氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)<br />
「氏神」の言葉の由来は、「氏(うじ)」と名乗る古代部族の祖先神、または何らかの機縁的ないし地縁 的な守護神を意味します。天皇家の祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)、中臣氏(なかとみし)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)などの例を あげることが出来ます。<br />
中世に入ると、武士団が荘園農民の村落を守護することによって土着していった為、氏族の守護神であった「氏神」が地縁的な 「土地の神」となっていきました。この頃から、出生地およびその鎮守の神を意味する「産土(うぶすな)・産土神(うぶすながみ)」という名が「氏神」と混 同されるようになってきました。<br />
江戸時代には、ムラと呼ばれた集落ごとに「鎮守の神」が祀(まつ)られ、その地域の神と住民との関係として「氏神-氏子」ないし「産土神-産子(うぶこ)」の観念が広く行き渡るようになりました。<br />
<br />
●神社 ―その存在する意味-<br />
お伊勢様(おいせさま〈神明さま〉)、八幡様(はちまんさま)、お稲荷さん、天神様など、私たちの周りにある「氏神様・鎮守様」には、多種多様な神々がお祀(まつ)りされています。<br />
神社を大きく分類すると、神道(しんとう)信仰の基本形態ともいうべき、地域ごとの、祀(まつ)る人々も限られた、名もない神々を祀る「氏神型神社」と、 これに対して、平安初期以降、霊威(れいい)のある神々が限られた地域を越えて各地に勧請(かんじょう)された「勧請(かんじょう)型神社」とに分かれま す。<br />
しかし、現在ある氏神様を、はっきりとこの二系統に区別することは無理となっています。今の氏神様は、名も無い地域の神としての性格を基本にしながら、霊威(れいい)ある招かれた神としての性格が重なり合って鎮座なされているのです。<br />
どの様な形であっても、神社がその地域の聖なる場所であることにはかわりなく、幕末の国学者たち、特に六人部是香(むとべよしか)によると、〈産霊(むす び)〉=〈産土(うぶすな)〉であり、産土とは「万物を生産せしむる根本神」であるとし、「産土社」はその御祭神(ごさいじん)にどのような神をお祀(ま つ)りしているかに関わらず、その地域の氏子の顕幽(けんゆう)両面(生まれる時も、生きることに関しても、死に関しても、死後のことについても)に深く 関わってくると説いています。<br />
産土神は、その地域の氏子を守護し、その死後の霊魂を導いて、生前の行動を審判したり、それらの先祖代々の霊魂と協 力して共に、それぞれの家々をも守るという。つまり、幽世(かくりよ〈あの世〉)と現世(うつしよ〈この世〉)との接点となる聖なる場所が「産土様」であ り、それぞれの地域は、「産土様」を通して幽世(かくりよ)からの影響を絶えず受けることになるというのです。
道開き
2002-06-07T09:30+09:00
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⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_27.html
●役行者(えんのぎょうじゃ)と蔵王権現<br />
修験道の開祖とされる役行者こと役君小角(えんのきみおづぬ)は、634年、加茂神社を氏神と祀る古代 氏族・加茂氏の流れをくむ、加茂神の祭祀をつかさどる役氏の家に生まれました。生駒明神(いこまみょうじん)の導きにより、生駒山での山中修行に入り、3 年後、小角22才の春、まことに不思議な光景が現れ、諸神諸仏の見守る中で龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・大乗仏教を理論的に整えた2~3世紀のインドの高 僧で、インド屈指の大哲学者)より宝珠を授けられたとされています。<br />
やがて、山に籠もって験力(げんりき)を身につけた小角が、いよいよ修験道 の守護神ともいうべき蔵王権現(ざおうごんげん)を祈り出したのが、小角41才の年です。大峯山々頂にある巨岩に座して、地上で苦しむ人々の災いを取り払 うだけの強い験力を持った神仏を祈り出すために、『孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)』や『不動明王経』を一心に唱えていた。すると最初に弁財天が お姿を現されたが、破邪の神としては、弁財天はあまりに優美すぎるように思われた。それをお察しになられた弁財天は天河の里に飛び去ったという。これが後 の天河弁財天になる。次に小角の祈りによって現れたのが地蔵菩薩であった。しかし、お地蔵様は慈悲の菩薩であったので、さらに一心に祈ると火炎の中から憤 怒の形相の不動明王さながらの神が示現した。それが蔵王権現であったという。<br />
<br />
★修験道の主尊(しゅそん)<br />
金剛薩埵(こんごうさった)の変化身(へんげしん)であるために“金剛蔵王権現”、“金剛蔵王菩薩”とも呼ばれ、「金峯山(きんぶせん)の守護神」であると同時に、「修験道における主尊」となる。<br />
その形状は、青黒色の顔を持ち、顔には怒りに燃えた降魔調伏の三眼(さんげん)を輝かせ、左手に剣印を結び腰に当て、右手に三鈷杵(さんこしょ)〈密教の法具〉を持って振り上げ、右足を上げているという躍動感のある姿の絵が残されている。<br />
こうした姿から、<br />
<br />
①五大力明王や、執金剛神(仁王〈におう〉尊)を原型とする神ではないか<br />
②胎蔵曼陀羅虚空蔵院(たいぞうまんだらこくぞういん)の一尊の変化身(へんげしん)ではないか<br />
③もっとも有力な説として挙げられるのが、吉野の地主神である金精明神(こんしょうみょうじん)という神が、役小角の験力によって、より強大な呪力を持った普遍的な神に昇華したのではないか<br />
<br />
とする説がある。<br />
<br />
<br />
●修験道<br />
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。<br />
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。<br />
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。<br />
<br />
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。<br />
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。
道開き
2002-06-07T09:25+09:00
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⑰不動明王
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_26.html
●不動明王の由来<br />
不動明王は、くわしくいうと“不動威怒(いぬ)明王”、略称で“不動尊(そん)”とも“無動尊”ともいい、密教においては“常 住金剛(じょうじゅうこんごう)”とも呼ばれます。この不動明王のインドでの呼称は“アチャラ・ナ-タ-”で、「ヒンズ-教のシヴァ神の別名」でもあり、 “動かないもの”を意味し、このことから不動明王はシヴァ神を起源とするとも言われていますが、その関係は明らかではありません。<br />
また、明王の 「明」は、「明呪(みょうじゅ)」すなわち「真言(しんごん)」〈真実の呪文〉を意味します。密教においては、真言を唱えることの威力は絶大で、その恩恵 は計り知れないとされています。つまり、「真言の力そのものを体現」した“呪文を司る者たちの王者”といった意味から明王と呼びます。<br />
<br />
★他にも「大威徳(だいいとく)明王」「金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王」「孔雀(くじゃく)明王」「太元帥(だいげんすい)明王」「愛染(あいぜん)明王」などが有名です。<br />
<br />
大乗仏教の末頃から不動明王を説く教典が多くなり、七世紀後半に、不動明王こそが仏教の守護神として最高の存在であると説く『大日経(だいにちきょう)』が成立するに至って、「五大明王の主尊(しゅそん)」としての地位を確立したのでした。<br />
<br />
<br />
●その容姿・呪文の効きめ - 護摩祈祷(ごまきとう) -<br />
★容姿<br />
大日如来(だいにちにょらい)の命を受け、忿怒(ふんぬ)の姿をした不動明王。又は、大日如来の化身として、卑しい使い走りの姿をしているのが特徴です。 教えを説いただけでは聞き入れようとせず、反抗する者に対しては、眼をむき、歯を出して、その威力で説き伏せます。襲いかかる災難に立ち向かって人々を守 り、また悪行に対しては厳しく叱責(しっせき)して正しきに導くといいます。<br />
背後には、“迦楼羅炎(かるらえん)”という火炎をバックにし(こ の火は“大智火〈だいちか〉”ともいい、異端を制し、煩悩〈ぼんのう〉を焼き尽くすとされます。)、右手には中道(ちゅうどう)を悟らせ、煩悩を滅ぼすた めの“剣”を持ち、左手には凡夫(ぼんぷ)を縛って菩提(ぼだい)へ導くための“索(さく、〈縄〉)”をもっています。<br />
「コンガラ・セイタカの二童子(どうじ)」を始め、「八大童子」などを従えている。<br />
※やがて、剣に龍王が巻きつく姿の“倶梨迦羅剣(くりからけん)”も現れます。この剣を“倶梨迦羅不動”と呼びます。<br />
<br />
★呪文<br />
不動明王の「明」は“知識”を意味し、これは、「呪文・真言」を指します。よって、“呪文を司る者たちの王者”、“呪文の中の王”というのが「明王」の意 味となります。このような呪文や真言は神聖な短文であって、これを唱えれば災害を除き、病気を治し、幸福を増すと信じられてきました。<br />
<br />
※ 不動明王の真言には“大呪”、“中呪”、“小呪”の三つがあり、なかでも中呪が有名です。<br />
「のうまく・さんまんだ・ばざらだん・せんだ・まかろしやだ・そはたや・うん・たらた・かん・まん」<br />
<br />
★護摩祈祷(ごまきとう)<br />
不動明王を本尊とする儀式の主なものは“護摩(ごま)”である。古いインド語の「ホ-マ」を漢字に写したものです。「火生三昧(かしょうざんまい)」に住む不動明王と火の儀式“護摩”は最もふさわしい組み合わせで、“護摩”の本尊としても不動明王が信仰されました。<br />
“護摩”は、「供物(くもつ)を火中に投じて仏に捧げ、仏と交信する儀式」で、そしてね災害や苦難、煩悩や罪業など内外の災いを除くための修法とされま す。火を焚いてその中に種々の供物を投げ入れ、口に真言を唱え、心に本尊を念じる。このことによって本尊と行者と一切衆生が結ばれ、所期の目的が達成され るといわれています。<br />
<br />
<br />
●修行者の“守り本尊”<br />
不動明王は悪を罰するだけでなく、修行者を加護し、修行の効を達成させる 慈悲の存在としても伝えられています。そうしたことからか、荒行中の荒行とされる天台宗の“千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)”では、必ず不動明王の 真言を唱えます。日本固有の山岳信仰と密教が結びついた厳しい修行をおこなう修験道においても、もっとも尊崇されているのは不動明王です。梵語(ぼんご) の「アチャラ・ナ-タ-」は、シヴァ神の別名であり、“動かないもの”、つまり“山の守護者”を意味しているからと言われます。<br />
<br />
<br />
●霊験(れいげん)と御利益(ごりやく)<br />
◎不動明王を初めて日本に伝えたのは弘法大師・空海です。高野山南院の“波切り不動”は弘法大師が中国で作ったものとされますが、帰国する途中で海が荒れ、大師がその像に祈念すると、像が命あるもののように動きだし、波を切る動作をして波を静めたと言い伝えられています。<br />
<br />
◎十三世紀、元寇の折りには、この“波切り不動”を持ち出して、外敵退散の祈願が行われ、その後は、国家を守る仏として信仰されました。<br />
<br />
◎『平家物語』に、厳寒の那智の滝で荒行し、二度も命を落としかけた文覚上人(もんかくしょうにん)が、不動明王の加護によって助けられた話が記されています。<br />
<br />
◎修験者やね戦前の霊術家といわれる人たちが、「金縛りの法」といって、人に害をなす霊などを身動きできなくしたといわれている術も、不動明王の力によるものとされます。<br />
<br />
※御利益 - 怨敵調伏(おんてきちょうぶく)、勝負必勝、立身出世、商売繁盛等
道開き
2002-06-07T09:25+09:00
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⑯鹿島神(かしまさま)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_25.html
●鹿島(かしま)神宮・香取(かとり)神宮<br />
- 古代の軍港だった鹿島 -<br />
茨城県と千葉県の境に位置する霞ヶ浦(かすみがうら)。古代は奥深く入り込んだ海だったというが、その入り口の部分をはさみ込むようにして“鹿島・香取の両神宮”が鎮座しています。昔から「鹿島・香取の神」と称され、深い関係で結ばれていました。<br />
古代の大和朝廷がこの両宮をいかに重視していたかは、当時、「神宮」と称されていたのが、伊勢と、この鹿島・香取だけだったということからも十分にうかがえます。それはこの地が、防衛上、蝦夷地(えぞち)と接する前線基地であったからとされます。<br />
「武士」のことを「もののふ」といいますが、当時は職掌として軍事を担当していたのが、その言葉の起源ともなる「物部(もののべ)氏」です。大和朝廷の東 国経営の任務も果たし、霞ヶ浦に拠点を置いた水軍を支配していました。そして、その地に「武神」を祀ったのでした。祭祀は大(おおの)氏という一族が司っ ていたようです。しかし、六世紀の物部氏が蘇我氏との抗争に敗れたことから、その勢力を次第に弱めていき、当時、全国の諸大社の神事を掌握しつつあった中 臣(藤原)氏が祭祀を司るようになっていきました。<br />
<br />
<br />
●御祭神は「武神」<br />
★建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)<br />
「武甕槌(たけみかづち)神」「建御賀豆知(たけみかづち)命」「建雷(たけみかづち)命」とも書かれる。“建(たけ)”は勇ましく猛々しい様を表している。“御雷(みかづち)”は文字通り“神鳴り(かみなり)”である。詳細は事項の「神話」で説明いたします。<br />
<br />
★経津主神(ふつぬしのかみ)<br />
香取神宮の御祭神である。『古事記』には、建御雷之男神の別名として「亦(また)の名は建布都神(たけふつのかみ)。亦の名は豊布都神(とよふつのか み)」とあり、これが経津主神を指すとされているので、二神は同神ということになる。しかし、『日本書紀』では別神として記されている。昔から二神が同神 か別神かは議論の的になってきました。<br />
最も有力なのは、経津主神は人格神ではなく、大和の国(奈良県)石上(いそのかみ)神宮の祭神、布都御魂 神(ふつのみたまのかみ)と同一神とされ、建御雷之男神が中つ国を平定したときに帯びていた“霊剣”のことだとされている。つまり、霊剣の御魂(みたま) を神として祀ったという説です。<br />
<br />
<br />
●「武神」の誕生と活躍をつたえる『神話』<br />
★誕生神話<br />
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神が次々に神を生んで、最後に生み出したのが火の神・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)。女神・伊耶那美命はそのために御蔭(みほと)を焼かれて亡くなり、黄泉(よみ)の国へ神去られました。<br />
おのれの出産のために母神を殺す結果となり、またそれにより父神から十拳剣(とつかのつるぎ)で首を斬り落とされるというまことに悲劇の神であるが、それ がそんなに悲惨な印象を受けないのは、このことによって、新しい神、それも大変重要な役目を担う神々が次々に生まれ、飛び出してきたからです。その中の一 柱として成ったのが“勇猛な雷の男神”である武神・建御雷之男神である。<br />
<br />
★国譲り神話<br />
◎天照大御神の“言(こと)よさし”と二度の失敗<br />
ことの始まりは、高天原を統治なされていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、長子・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に豊葦原中国(とよあし はらのなかつくに、日本のこと、広義にはこの世のこと)を統治するように命じた事による。この時の中津国は荒ぶる神々がはびこり、なかなか手がつけられな い様であったので、これを従わせようと、前後二回に渡り特使として天菩比命(あめのほひのみこと)、天若日子(あめのわかひこ)を派遣したが、二回とも失 敗した。<br />
<br />
◎建御雷之男神の登場<br />
かくして高天原随一の猛々しい神とされる建御雷之男神を正使とし、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副使として派遣した(『日本書紀』では経津主神と共にとなっている)。<br />
出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜に着いた建御雷之男神は、十拳剣を抜き、波の上に逆さに突き刺し、その剣の先にどっかとあぐらをかき、大国主神に問うた。<br />
「われは天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の命によって参った者である。あなたが治めている葦原中津国は、天照大御神の御子の治めるべき国である、と仰せられたのであるが、あなたの心はいかにあるか。」<br />
大国主神は、<br />
「私にはご返答できかねます。我が子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がお答えいたします。しかし、今は美保の岬へ鳥や魚を取りに行ったまま帰っておりません。」<br />
と申された。<br />
そこで建御雷之男神は、天鳥船神に命じて事代主神を連れ戻させ、問うてみた。事代主神は、父神・大国主神に向かって、<br />
「おそれ多いことです。この国は天つ神の御子に献上いたしましょう。」<br />
と答えたのであった。<br />
<br />
◎建御名方神(たけみなかたのかみ)との力くらべ<br />
建御雷之男神は、さらに大国主神に、<br />
「まだ他に意見のある子神はいますか。」と問うた。<br />
大国主神は、<br />
「もう一人、私の子に建御名方(たけみなかた)神というのがいますが、これ以外には異議をとなえる者はありません。」<br />
と言う間もなく、当の剣御名方神が、大きな石を両手でさし上げながら来て、<br />
「誰だ、この国に来て、ゴチャゴチャ言っているのは。それならば、先ず私と力比べをしようではないか。それでは先にお前の手を取る。」<br />
と、建御雷之男神の手を取ろうとすると、その手はたちまち氷のように変じ、こんどは剣のように鋭くなった。さすがに力自慢の建御名方神も、大いに恐れて引き下がった。<br />
こんどは建御雷之男神の番である。建御名方神の手を握ると、まるで若芽(わかめ)の葦(あし)を握るように、たやすく握りつぶし投げ飛ばしたので、建御名 方神は驚き逃げ出してしまった。建御雷之男神はこれを追いかけ、信濃国(しなの、現在の長野県)まで追いつめ、うち倒そうとしたが、この地から決して出な いこと、大国主神、事代主神の命令を聞くこと、天つ神の御子に国を譲ることを条件に許した。<br />
尚、この建御名方神が諏訪(すわ)大社の御祭神として祀られている。<br />
<br />
◎出雲(いずも)大社の起源<br />
建御雷之男神は、信濃国から帰って、大国主神に、<br />
「あなたの二人の子神は、天津神の御子に従うと言ったが、あなたはどうか。」<br />
と尋ねると、大国主神は、<br />
「私の二人の子の、言ったとおりにします。ただし、私の住む所を、天神の御子の住む御殿のように造って下さるのならば、私はその隅に隠居します。事代主命が先頭に立てば、それに反抗する神はないでしょう。」と言って身を隠された。<br />
この時の約束で造られたのが出雲大社であり、以後、大国主神は“幽冥の主宰神”となる。<br />
よって、別名、幽冥事知食大神(かくりごとしらしめす大神)ともお呼びする。<br />
<br />
★神武東征(じんむとうせい)<br />
神武天皇(神倭伊波礼毘古命〈かむやまといわれひこのみこと〉)が日向(ひむか)の地を起たれて、大和に入る前に、熊野の地で大熊に会い、天皇はじめ全軍 がその毒気により気を失ってしまう。この時、熊野の土豪で高倉下(たかくらじ)というものが一振りの太刀を天皇に奉ると、すぐに天皇は目覚め、その太刀で 熊野の山の荒ぶる神々を平らげることができた。<br />
この太刀の由来は、高倉下の夢の中に天照大御神と高木神の二神が、建御雷之男神を召し、「葦原中 国を平定するために降れ」と命じられたが、建御雷之男神が「自分の代わりにこの太刀を降ろしましょう」と言い、高倉下の倉の棟(むね)に落とされたもので あった。この太刀を“布都御魂(ふつのみたま)”と言い、現在では奈良県の石上(いそのかみ)神宮に御神体として祀られている。
道開き
2002-06-07T09:25+09:00
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告!!!!
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_24.html
以下の順で書き込みを行っています。<br />
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。<br />
<br />
①産土さま(うぶすなさま)<br />
②七福神<br />
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)<br />
④お稲荷さん(おいなりさん)<br />
⑤八幡さま(はちまんさま)<br />
⑥庚申さま(こうしんさま)<br />
⑦山の神<br />
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)<br />
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)<br />
⑩天神さま(てんじんさま)<br />
⑪火の神々<br />
⑫白山神(はくさんさま)<br />
⑬熊野権現(くまのごんげん)<br />
⑭日吉神(ひえさま)<br />
⑮賀茂神(かもさま)<br />
⑯鹿島神(かしまさま)<br />
⑰不動明王(おふどうさま)<br />
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)<br />
<br />
ここの時点では、⑮賀茂神(かもさま) までの打ち込みを終えています。
道開き
2002-06-06T10:10+09:00
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⑮賀茂神(かもさま)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_23.html
●二つの神社からなる賀茂大社<br />
もと官幣大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“山城国一の宮”の賀茂大社は二つの神社から成ります。<br />
<br />
・賀茂別雷(わけいかづち)神社〔上賀茂社〕 賀茂別雷(わけいかづち)大神<br />
<br />
・賀茂御祖(みおや)神社〔下鴨社〕 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿 <br />
玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿<br />
<br />
両社を総称して賀茂大社といい、皇室との関係からかっては「賀茂神宮」とか、「賀茂皇大神宮」とも呼ばれていました。<br />
<br />
<br />
●御祭神に関わる『神話』<br />
★賀茂建角身(かもたけつぬみのみこと)<br />
- 八咫烏(やたがらす)化身して神武天皇をたすける -<br />
この神は、人皇(じんのう)初代・神武(じんむ)天皇(神倭伊波礼比古命〈かんやまといわれひこ〉命)の東征(とうせい)に功のあった八咫烏として有名で あり、父母の名前は明らかではないが、造化三神(ぞうかさんじん)の一柱・神産巣日神(かみむすびのかみ)の孫とされている。<br />
日向(ひむか)の 地を後にし、東征の途についた神武天皇一行は海路、難波(なにわ、大阪)を経て蓼津(たでつ)に上陸し、大和に入ろうとしたところ、饒速日命(にぎはやひ のみこと)を奉じた土地の土地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)に阻まれた。一軍を指揮していた伊波礼比古の兄・五瀬命(いつせのみこと)も戦傷する有り様 であった。<br />
この敗戦の原因を深く反省した五瀬命は、「日の神の子孫である我々は、日に向かって戦った為に利あらず、今より道をかえ、日を背負って戦うべし」との策を立てて、一行は熊野沖に向かったのであったが、その途中で、五瀬命は亡くなった。<br />
辛苦の末、熊野についた伊波礼比古一行は、土地の悪神どもの差し向けた大熊の毒気に当たって危ういところを、天照大御神と高皇産霊神(たかみむすびのか み)が武神・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に命じ、高倉下(たかくらじ)という者を仲介にして届けさせた太刀の霊力によって、その難から逃れる ことができました。<br />
そのうち、高皇産霊神は、雲の上から神倭伊波礼比古命に向かって、「天の御子よ、ここから奥へ決して行ってはいけません。こ の向こうには悪神たちがたくさんいます。今これから私が八咫烏(やたがらす)を差し下すので、その後についておいでなさい。」とお諭しになりました。そし て、八咫烏の導きのもと、行く先々で降ってくる悪神を従えたり、八十梟師(やそたける)などを討伐したりしながら一行は、ついに長髄彦と対決することと なったのでした。 <br />
長髄彦の激しい抵抗により、戦いはいつ果てるともなく続きました。その最中、一天にわかにかき曇り、激しい風雨となりまし た。そのとき、どこからともなく、金色の鵄(とび)が飛んできて、伊波礼比古命の弓の先に止まった。そして、その金色の鵄は稲妻のように光り輝いたので、 長髄彦の軍勢は眼がくらんで戦意を失ってしまい敗走することとなりました。<br />
やがて、同じく天の御子で、伊波礼比古命より先にこの地に来ていた饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦に降伏することを勧めたが、従わなかった為に長髄彦を討ち、その軍勢を率いて伊波礼比古命に降った。<br />
そして、大和の橿原宮(かしはらのみや)で、伊波礼比古命は神武(じんむ)天皇として初代天皇の位に就かれたのでした。<br />
<br />
※八咫烏(やたがらす)<br />
太陽の中に住んでいるといわれる三本足の赤い鳥。熊野神社で発行している“牛王宝印(ぎゅうおうほういん)”というお札に、模様化された鳥の絵が描かれているが、それが八咫烏(やたがらす)である。<br />
<br />
★建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)<br />
- 処女懐胎伝説 -<br />
大和平定の後、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)はこの大和の地に定住する。ここで伊賀古夜比売(いがこやひめ)をめとり、建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)の二子をもうける。<br />
息子の建玉依比古命の一族は、代々の賀茂県主(かものあがたぬし〈大和朝廷時代の県の統治者のこと〉)<br />
賀 茂のあたりの小川のほとりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰っ て自分の床の近くにさし、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命 (かもわけいかづちのみこと)です。<br />
丹塗りの矢は、日吉大社や松尾大社の伝承では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)であるとされ、『山城国風土記(やましろのくにふどき)』逸文によれば「乙訓郡(おとくにのこうり)の向(むこう)神社の火雷命(ほのいかづちのみこと)であったという。<br />
<br />
★賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)<br />
- 古代の山城・丹波地方を拓いた神さま -<br />
その子が成人した時、祖父の賀茂建角身命は一族の神々を招いて、七日七夜の盛大な祝宴を催した。この時、賀茂建角身命は、この子に向かって、「父と思う者 がこの中にいるか、いたらその者にこの酒を注ぎなさい」というと、杯を捧げ持った御子は、天に向かって祈った。すると、この御子は猛然と屋根を突き破って 天に昇ってしまった。この出来事により、賀茂建角身命はこの御子に、自分の名にちなんで賀茂別雷命と命名した。<br />
この賀茂別雷命は、古代の山城・丹波地方(現在の京都府)を開拓した業績の高い神であるため、またの名を分土神(わけつちのかみ)ともいう。<br />
<br />
<br />
●葵(あおい)祭〈賀茂祭〉 - ミアレ神事(しんじ) -<br />
『賀茂縁起(えんぎ)』によると、昇天した賀茂別雷命を慕い悲しんだ母神に対して、御子神より夢の知らせがあり、「もし自分に会いたいと思うならば、天羽 衣(あめのはごろも)、天羽装(あめのはしょう)をつくり、火を焚き、鉾(ほこ)をつなぎ、走馬を飾り、奥山の榊(さかき)を取って阿礼(あれ)を立て、 いろいろに染めた帛(はく、薄い絹)を垂れよ、また葵楓(あおいかえで)を造り厳かに飾って持てばわれは必ずそこに来るであろう」と教えたという。<br />
ここに、現在の“御生(ミアレ)神事”と賀茂祭における「走馬」や「葵楓(あおいかえで)」・「楓蘰(かえでかつら)」の由緒が述べられています。この賀 茂祭で一番大事な“御生(ミアレ)神事”であるが、上賀茂社の北西約一キロのところにある神山の山中に四間四方の榊で造った“神籬(ひもろぎ)”〈神霊の 降臨なされる依代(よりしろ)〉を立て、葵の蔓(つる)を挿した宮司以下神職が秘儀を行い、闇の中で「阿礼木(あれぎ)」という榊の枝をもった神人が立砂 (たてすな)〈円錐状の独特の盛り砂〉を三周した後、神遷し<br />
を行うもの。<br />
いわゆる葵祭で知られる賀茂祭は、この御阿礼(みあれ)神事か ら始まり、かつては石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の南祭(なんさい)に対し北祭(ほくさい)と称し、国祭として行われました。行装(ぎょうそ う)の美しく典雅であるため、これを街頭で見物する賑わいの特に著しかったことなどにより、王朝時代にはただ祭りというだけでこの賀茂祭を指したほどで す。<br />
同じく下鴨社でも、比叡山麓に鎮座する御蔭(みかげ)神社から建玉依媛命の神霊を遷す同種の神事があります。<br />
<br />
<br />
●賀茂氏 - 大和地方に強大な力を誇った古代氏族 -<br />
現在、賀茂社は二社から成りますが、奈良時代の初期頃までは、賀茂社といえば上賀茂のみを指していたらしいのです。すなわち、大和から山城にかけての賀茂 氏の移動にともない、山城盆地が開拓されていき、農耕に水を供給してくれる水神として、農耕神として、雷神が祀られていたというのです。<br />
その賀茂社も最初の鎮座地、葛城山(かつらぎさん)から少しずつ移動し、現在の上賀茂の地に鎮座したのでした。その祭祀者が、賀茂建角身命を遠祖にもつ「賀茂建主(かもあがたぬし)」を長と仰いだ賀茂氏でした。<br />
やがて、文武天皇の時代(697-707)に、賀茂社(上賀茂)の遙拝所(ようはいじょ)が、下社として独立し、下賀茂社が創建されたといわれます。<br />
<br />
※修験道開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)<br />
修験道の開祖として有名な“役行者”こと役小角(えんのおづぬ)の出自の役氏(えんし)は、正式には「賀茂の役(えだち)の氏」といい、賀茂氏発祥の地ともいうべき葛城山周辺で、神事部門で宗家の賀茂氏に仕えた分家の氏の家柄だったといいます。<br />
<br />
<br />
●王城の鎮護神<br />
賀茂の上・下社は、平安遷都以前から山城の国の鎮守神として、その神威を示し、平安遷都(794)後は、“王城の鎮護神”として朝廷の篤い崇敬を受けました。<br />
その社格は高く、「二十二社の制」では石清水八幡宮に次ぐ「上七社」の第二位に甘んじたが、それ以外では官社、諸社の筆頭として伊勢神宮に準ずる扱いを受けました。すなわち、天皇の皇女が斎王として奉仕したり、二十一年ごとの遷宮などが行われて来たわけです。<br />
神武天皇ゆかりの神社ということもあり、「賀茂神宮」、「賀茂皇大(こうたい)神宮」などと呼ばれたりもしました。<br />
<br />
<br />
●烏伝神道(うでんしんとう、からすづたえしんとう)<br />
賀茂規清(梅辻規清〈うめつじのりきよ〉)〈1798~1861〉。上賀茂社の社家の出身。十二ヶ年に渡って、三十三カ国の深山幽谷を遍歴修行の後、曾祖 父の岡本清茂が再興した、遠祖・賀茂建角身命(八咫烏)に由来する“賀茂神道”を基盤に、独自の神秘的神道説を加味した“烏伝神道”を創始した。<br />
江戸の池之端(いけのはた)に居を構えて瑞烏園(ずいうえん)と号した。天文・暦学・建築学にも通じ、水戸学の大家・藤田東湖をして当代一流の学者と、高い評価をせしめたが、江戸幕府からは弾圧を受ける。
道開き
2002-06-06T10:10+09:00
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⑭日吉神(ひえさま、ひよしさま)
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●日吉(ひよし)大社<br />
もと官幣(かんぺい)大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“近江(おうみ)国一の宮”の日吉大社は全国三千八百余の「日吉(日枝、〈ひよし、ひえ〉)・<br />
山王(さんのう)系の神社の総本社」と仰がれています。<br />
比叡(ひえい)山麓に鎮座し、平安遷都後、その山上に延暦寺(えんりゃくじ)が開かれると、“天台宗の守護神”としての性格が強まりました。しかし、もともとは『古事記』にも記載される神代起源の古社なのです。<br />
御祭神は、<br />
<br />
・大山咋神(おおやまぐいのかみ) 東本宮<br />
又の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)という。<br />
<br />
・大己貴神(おおなむちのかみ) 西本宮<br />
出雲大社の大国主神、奈良の大神神社の大物主神とは同神<br />
<br />
その創祀は古く、『古事記』によれば、大年(おおとしの)神の御子(みこ)神の系譜の中に、<br />
<br />
「次に大山咋神、亦(また)の名は山末之大主神。此の神は近淡海国(近江国)の日枝山(比叡山)に坐す。亦葛野(かづぬ)の松尾(松尾大社)に坐す鳴鏑(なりかぶら)に成りませる神なり」<br />
<br />
とあります。つまり、この大山咋神は、もともと「日枝山の山末(山麓)の牛尾山(八王子山)に妃(きさき)神・建玉依媛神(たけたまよりひめのかみ)と共に鎮座していた神」であり、「葛野の松尾(まつのお)大社でお祀りしている神」であるというのです。<br />
そして、日枝山の山末の八王子山に鎮座する八王子社が「日吉大社の奥宮(元からあったお宮)」であり、全国の八王子社も「日吉・山王系の神社」ということになります。<br />
又、『古事記』のこの記述から、京都の嵐山に鎮座する松尾大社は、本来は日枝山の山神の分祠(ぶんし)だったらしいと言うことがわかります。この松尾大社は帰化氏族・秦(はた)氏の氏神でした。日吉大社と同様の「処女懐胎(しょじょかいたい)伝説」が伝わっています。<br />
京都の賀茂(かも)大社を氏神と仰ぐ古代氏族・賀茂氏と秦氏とは、その出自は違っていますが、両氏はきわめて密接な関係にあったようです。つまり、「日 吉、賀茂、松尾の各大社は、比叡山系の山々を水源とする分水嶺(ぶんすいれい)からの水の恵みを通して、神々の恵みを感受し、崇拝されてきた“水分(みく まり)信仰”と、同様に、天より雨水を供給してくれる鳴神(なるかみ〈雷神〉)を崇拝してきた“雷神信仰”に発した神社と言えるからです。<br />
<br />
<br />
●大山咋神<br />
ヤマタノオロチ退治でも有名な英雄神・須佐之男命(すさのおのみこと)の子神・大年神(おおとしのかみ)は年月の神であると同時に、国土開発に尽力した神としても知られています。その大年の神の子、大山咋神もやはり“国土建設の神”として有名です。<br />
古伝によれば、「太古の丹波国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓き、国土とした。鋤(すき)をもって神体とし、祠(ほこら)を建てて祀ったのが丹波国(たんば)<br />
の浮田(うきた)明神である」という。<br />
その妃(きさき)神は建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)といい、京都の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨社)の御祭神です。〈同じく下鴨社の御祭神 で、神武東征(じんむとうせい)の際に八咫烏(やたがらす)に化身して活躍した神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘にあたります。〉<br />
御子神は賀茂別雷命(かもわけいかづち)といい、賀茂別雷(わけいかづち)神社(上鴨社)の御祭神として祀られています。<br />
<br />
★神話<br />
大山咋神が山に鳥獣を求めて狩りに行ったとき、獲物に向かって放った矢が瀬見の小川に落ちてしまった。矢は川下に流され、おりから賀茂のあたりの小川のほ とりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰って自分の床の近くにさ し、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命です。<br />
<br />
<br />
●大己貴神<br />
天智六年(六六七)、天智天皇が近江の国(滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に遷都した翌年、比叡の山に、大和朝廷の守護神だった“大和国一の宮”の大三輪神社(おおみわじんじゃ、大神神社)の御分霊を勧請(かんじょう)し、「大津京の守護神」とした。<br />
この大神神社の御祭神は大物主神だが、古来、大物主神=大国主神=大己貴神とされており、日吉では西本宮の御祭神として大己貴神を祀ったのでした。<br />
ところが、当時は、比叡山の地神である大山咋神を祀った東本宮よりも、勧請神で大和朝廷の守護神であった大己貴神の西本宮の方が上位に考えられ、大山咋神の東本宮は摂社(せっしゃ、神社の主祭神と縁故のる神さまを祀った社)とみられました。<br />
その反動からか、明治四年、官幣大社に列せられたときには、『古事記』の記載により大山咋神が主祭神とされ、今度は大己貴神の西本宮が大神神社と改称され て、逆に摂社とされました。しかし、昭和三年には、二神をまったく同格の二座の主祭神に復して、現在の日吉大社となったのでした。<br />
<br />
<br />
●山王権現(日吉権現) -延暦寺との関係-<br />
六世紀頃より、日本に仏教が伝来するに従って、神道は仏教と分かちがたく結びつくことになりました。国家鎮護の目的で仏教が採用されることにより、“神仏 習合“が進み、仏教側から日本の神は仏が仮に姿を現したものであるとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が唱えられるようになったからです。<br />
そうした状況のもと、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺を創建するにあたり、山麓に祀られていた“日吉大神”こと大山咋神、そして大己貴 神を“日吉山王(ひえさんのう)”として祀ったとされます。が、実際には、その弟子の円珍上人(えんちんしょうにん)のときから、日吉社の神を“天台宗の 護法(ごほう)神”として祀ったという説もあります。<br />
<br />
★山王信仰のル-ツ<br />
日本の天台宗の本家筋に当たる中国の天台山国清(こくせい)寺には山王祠(さんのうし)が祀られていました。その山王祠にちなんで、日吉神を祀る社を“山王社”というようになったと言われています。<br />
インドには、釈迦が最高の教えである「法華経」を説いたという“霊鷲山(りょうじゅせん)山王説”があり、天台宗の根本教典である法華経を広めるところには必ず山王が現れて、それを守護するという信仰です。ちなみに山王とは“山の主(ぬし)”を意味します。<br />
<br />
また、鎌倉時代の伝承に、「最澄が比叡山で修行中のある夜、突如、三つの光臨(こうりん)が現れた。それは釈迦如来(しゃかにょらい)、薬師如来(やくし にょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)だったという。その三尊は天台宗の守護と人々の救済ために飛来したといい、そこで最澄は、釈迦如来を大比叡神 (おおひえのかみ、西本宮)、薬師如来を小比叡神(おびえのかみ、東本宮)、阿弥陀如来を宇佐宮(うさのみや、聖真子権現〈しょうしんじごんげん〉)の本 体に定めた」とされています。<br />
権現とは、「仏が仮初めに神の姿をとって現れたことをいう仏教用語」ですが、平安時代に入ると、延暦寺の勢力拡大とともに“山王権現”の崇敬も広まりました。ですから、各地に天台寺院が建立されると、その鎮守神として山王権現が必ずといっていい程に勧請されました。<br />
<br />
★伝教大師・最澄<br />
弘法大師・空海と双璧をなす日本仏教界史上の大天才です。近江国に帰化人系の有力な農民の子として生まれました。奈良仏教の腐敗のなかで、東大寺の奥深く に蔵された、かって鑑真(がんじん)和尚が唐からもたらした天大仏教の経典にめぐりあい、比叡山に籠もった。やがて桓武天皇の親任をうけるようになり、延 暦寺を開山する。<br />
すべての人間には平等に仏性があり、善行を積めば、いくたびか生まれ変わるうちには、必ず成仏できると説く。それどころか、はるか人間を越えたあらゆる生きと生きるもの、さらにはこの世界に存在するすべてのものが、仏になれると説きます。<br />
「山河草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」<br />
これは、私たち日本人がはるかな古代から、大自然より感じとってきた「人間も動植物も、山や川さえも、すべて神性を帯びている」という古神道的自然観、生 命観を、日本仏教の中心思想に鍛え上げたものでした。つまり、仏という文字を神に置き換えればそのまま神道的なものになります。だからこそ神仏習合が容易 におこなわれることができたのでしょう。<br />
<br />
<br />
●山王神道<br />
それまでの天台宗式の神道が、“山王神道”として確立されたのは、元寇(げんこう)によって神国日本の思潮が最高点に達した鎌倉時代のことでした。そのような中で書き著された『耀天記(ようてんき)』には、山王神道の由緒が記され、<br />
「山王は日本無双の霊社、天下一の明神。諸神の中には根本、万社の間には起因なり」<br />
とあり、山王社が日本最高の神社とまで説いています。<br />
「山王神道の中心は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の考え方に基づき、“日吉神”の信仰と天台密教の教義が結合されたところにあります。」<br />
その後、“吉田神道”や“伊勢神道”の影響を受け、「日吉神と天照大御神が同一神であると見られるようにもなり」ました。その一方で、「天台宗の念仏の守 護神である“摩多羅神(またらじん)”とも結びつきました。摩多羅神とは、円珍上人(えんちんしょうにん)が唐から帰日する際、上人に向かって空中から呼 びかけた神と言われています。<br />
<br />
★“山王”の文字の神秘的解釈<br />
山王神道で興味をそそられるのは、“山王”という文字を秘教的に解 釈する点です。「山王」という字は「山」にしても「王」にしても皆、三本と一本の線から出来ています。つまり「山」は縦が三本で横が一本、「王」は横が三 本で縦が一本である。天台の観想(かんそう、心の動揺を止め、物事の真理について深く観ること)の方法として「三諦一実(さんていいちじつ)」という教え があり、その「三諦一実」を「山王」という字が文字通りに表しているというのです。<br />
さらに、この「三諦一実」は、生死や煩悩(ぼんのう)の域を脱して悟りの境地に達するという「一心三観(いっしんさんかん)の悟り」、あるいは人の日常の心がそのまま全宇宙であるという「一念三千(いちねんさんぜん)」をも象徴していると説く。<br />
<br />
やがて鎌倉時代に入り、吉田神道が勢力を拡張するにつれてこれら密教系神道を激しく攻撃したにも関わらず、比叡山延暦寺が確固たる基盤を持っていたため、 その支配下にあった山王神道もまたそうとうな力を有していたようです。比叡山の僧兵が日吉山王社の神輿をかついで京都に乱入し、強訴するといつた事件はあ まりにも有名です。<br />
<br />
<br />
●山王一実神道<br />
織田信長の比叡山焼き討ちで、日吉山王社も焼失しましたが、山王神道は絶えることなく、社殿は豊臣秀吉、徳川家康らによって再興されます。<br />
特に江戸時代の初頭、その教説は、徳川家康の腹心でもあり、上野の寛永寺を創始した天台宗の天海僧正によって大きく復興されました。山王一実神道の「山王 一実」という名称も、天海僧正が「山王」に、天台宗の「円頓一実戒(えんとんいちじつかい)」や法華経の「一実乗(いちじつじょう)」からの「一実」を合 体させて作った造語とされています。<br />
天海は「日吉神と天照大御神と大日如来(だいにちにょらい)は一体であり、神仏の元は天照大御神である」と説き、江戸幕府の力を背景にして山王一実神道を大いに宣揚しました。<br />
徳川家康の死去にともない、家康本人の意もあって、幕府公認の神道家元たる「吉田神道」によって、家康に“明神(みょうじん)”号を贈ることとして、一端 は駿府の久能山に神葬した。そのことについて天海は、豊臣秀吉がやはり同じ明神号だったにも関わらず、結局は自らの神威を発揮できなかったことをあげ、明 神号は不吉だとして、“権現(ごんげん)”の神号に決定させ、結局、山王一実神道の様式で祭祀を執り行い、日光東照宮社殿中央にその御霊(ミタマ)を「東 照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀り、左には「天台宗の念仏の守護神・摩多羅神(またらじん)」、右には「日吉山王神」を祀った。<br />
山王一実神道はその後も、延暦寺を中心とする天台系の寺院勢力を背景に根強く存続しましたが、明治維新の際の神仏分離令によって強制的に廃絶されました。 但し、第二次世界大戦後は、神仏習合時代の信仰形態も一部復活し、現在の“日吉山王祭”では古式通り、比叡山延暦寺の僧による読経と奉幣(ほうへい)も行 われるようになりました。
道開き
2002-06-06T10:05+09:00
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告!!!!
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_21.html
以下の順で書き込みを行っています。<br />
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。<br />
<br />
①産土さま(うぶすなさま)<br />
②七福神<br />
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)<br />
④お稲荷さん(おいなりさん)<br />
⑤八幡さま(はちまんさま)<br />
⑥庚申さま(こうしんさま)<br />
⑦山の神<br />
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)<br />
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)<br />
⑩天神さま(てんじんさま)<br />
⑪火の神々<br />
⑫白山神(はくさんさま)<br />
⑬熊野権現(くまのごんげん)<br />
⑭日吉神(ひえさま)<br />
⑮賀茂神(かもさま)<br />
⑯鹿島神(かしまさま)<br />
⑰不動明王(おふどうさま)<br />
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)<br />
<br />
ここの時点では、⑬熊野権現(くまのごんげん) までの打ち込みを終えています。
道開き
2002-05-31T17:45+09:00
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⑬熊野権現(くまのごんげん)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_20.html
●「山」-神聖なる“場”<br />
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。<br />
<br />
① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。<br />
<br />
②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。<br />
<br />
③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。<br />
<br />
④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。<br />
<br />
<br />
●“日本の原郷”・熊野<br />
太古の面影を今もなほそのままに残しつつ、ただひっそりと神々たちの息づくところがあります。それが熊野です。現在の和歌山県、かつては「紀(き)の国」 と呼ばれ、つまり常緑の樹木が鬱蒼と茂った「木の国」に位置します。熊野の「くま」は「カム(神)」であり、熊野とは「神々の住まう聖なる地域」を意味し ます。<br />
熊野では、川の神、海の神、山の神、日の神、そして、火、石、水、木の神といったように、もっとも素朴で根元的な様々な神祀りが行われて おり、日本民族の信仰の古層を幾重にも濃厚に残しています。熊野と「縄文時代」の信仰を結びつける学者も非常に多い。だからこそ、、熊野は“日本の原郷” と呼ばれたりもしています。<br />
すぐそばを世界最大の黒潮・日本海流が流れ、その海流に乗って伝わったとされる、遠くはインドなどの大陸からの文化、信仰の名残も見られると言います。<br />
<br />
<br />
●熊野大社(熊野三山)<br />
◎熊野本宮――家津御子(けつみこ)神=スサノオ<br />
創 祀は崇神(すじん)天皇の六十五年(BC33)奉斎したのは天孫ニニギの命(みこと)の兄にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫とされる熊野国造 (こくぞう)家、つまり物部(もののべ)系の家筋である。よって古代の熊野には日神信仰もあり、初代神武天皇を熊野から大和に導いた熊野大神の神使・“八 咫烏(三足烏)”〈やたがらす〉は太陽に住んでいるとされます。<br />
<br />
◎熊野速玉(新宮〈しんぐう〉)――速玉之男(はやたまのお)神<br />
創祀は景行(けいこう)天皇の五十八年(一世紀頃)。神武天皇が熊野灘(なだ)から上陸したとき、突然現れた大きな熊の毒気にあてられ、多くの軍勢が倒れ たという熊野神邑(くまののかみむら)とはこの熊野川口地域のこと。近くには蓬莱山(ほうらいさん)があり、秦の始皇帝の命によって日本に来たという除福 (じょふく)伝説の発祥の地でもある。<br />
<br />
◎熊野那智(なち)――熊野夫須美(くまのふすみ)神<br />
仁徳朝の創祀と伝えられる(三世紀 頃)。那智はサンスクリット語の“河・江”の意。那智山から発する大滝を御神体とした飛瀧(ひろう)神社から今日のような立派な社殿が建立された。「夫須 美(ふすみ)」は「むすび」、すなわち「産霊(むすび)」の義。よって御祭神も多くの島々や神々を産んだイザナミ神と同神とされる。<br />
イザナミ神は火の神カグツチを産み、その時の火傷によって黄泉(よみ)の国に赴くこととなった。そのイザナミ神を葬り祀ったのが、同じ熊野の有馬村に鎮座する日本最古の神社とされる“花の窟(いわや)神社”であるという。<br />
<br />
<br />
●修験道<br />
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。<br />
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。<br />
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。<br />
<br />
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。<br />
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。<br />
<br />
★神仏習合による三社-三山の関係 <br />
(神社) 〈御祭神〉 (本地仏)<br />
本宮(ほんぐう) 家津御子(けつみこ)神 阿弥陀如来(あみだにょらい)<br />
新宮(しんぐう) 速玉之男(はやたまのお)神 薬師如来(やくしにょらい)<br />
那智(なち) 熊野夫須美(くまのふすみ)神 千手観音(せんじゅかんのん)
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2002-05-31T17:40+09:00
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⑫白山神(白山さま)
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_19.html
●白山連峰<br />
山頂に冠のように輝く雪をいただいて、遠く連なる白山連峰。御前峰(ごぜんぽう)を主峰とし、大汝峰(おおなんじみね)、剣ヶ峰(け んがみね)からなり、山頂には奥宮が鎮座します。この奥宮は、白山本宮(はくさんほんぐう)、白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)、禅定本宮(ぜん じょうほんぐう)などと呼ばれていました。そして、その山頂の奥宮を目指すようにして“馬場(ばんば)”と呼ばれる三つの登拝口(とはいぐち)が加賀、越 前、美濃にあり、それぞれに神社が祀られています。<br />
<br />
◎加賀馬場(石川県) 白山比咩(しらやまひめ)神社<br />
全国三千の白山神社の総本宮。中世は延暦寺(えんりゃくじ)の管理下にあり、衆徒三千人が住したという。<br />
<br />
◎越前馬場(福井県) 白山神社<br />
もとは平泉寺(へいせんじ)といい、白山修験の中心であった。現在でも、毎夏、曹洞宗・大本山の永平寺(えいへいじ)の雲水(うんすい)らがこの馬場から集団登拝している。<br />
<br />
◎美濃馬場(岐阜県) 白山中居神社<br />
かつては白山本地中宮(はくさんほんじなかみや)と称した。<br />
<br />
※開山したのは越前の行者・泰澄(たいちょう)であるが、三方の登山口を開いたのは園城寺(おんじょうじ)の僧・宗叡(しゅうえい)である。<br />
<br />
<br />
●主祭神・白山比咩(しらやまひめの)大神 <br />
主祭神は白山比咩大神〈菊理姫神(くくりひめのかみ)〉。他にも、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)の二柱(ふたはしら)の神々を祀っている。白山比咩神社の「比咩(ひめ)」は「姫」、つまり白山菊理媛(くくりひめ)のことです。<br />
<br />
◆「埋没神(まいぼつしん)」・菊理媛の謎<br />
古くから多くの人たちの信仰を集めてきた“ククリヒメ”は、神典『古事記』には全く登場せず、『日本書紀』の「一書(あるふみ)」に一カ所登場するだけで す。すなわち、イザナギの冥界(黄泉国〈よみのくに〉)訪問伝承において、イザナギ神がイザナミ神と黄泉比良坂(よもつひらさか)で争った際に、黄泉守道 者(よもつもりみちひと)という黄泉国に通じる道の番人と共に現れ、ナギ・ナミ二神の争いをやめさせた神として登場するばかりです。<br />
その部分を引用すると、<br />
「是(これ)の時に、菊理媛神、亦(また)白(もう)す事有り。イザナギの命(みこと)聞しめして、善(ほ)めたまひて乃ち(すなわち)散去(あらけ)ましぬ」<br />
であり、何を囁いたのかその内容については、全く伝わっていません。<br />
菊理媛は古代において、託宣(口寄せ)を行った巫女の祖ではないかという見方もされています。日本の民俗信仰においては、山は死者の帰る他界と考えられております。それらの山の神や祖霊の言葉を取り次ぐための巫女の活動は、古代より存在していました。<br />
菊理媛が囁いた黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、この世とあの世の接点とも考えられます。<br />
<br />
◆白山信仰の広がりの謎 <br />
なぜに、謎の多い「埋没神」菊理媛を御祭神とする白山信仰が、全国的な拡がりを見せたのか、そして、どのような経路で広がったものなのかもまた不明です。<br />
古代朝鮮の“白山部(はくさんぶ)”という支族の白頭山(はくとうさん)〈=太白山(たいはくさん)〉信仰が、海を越えて伝わり、日本古来のシャ-マニズムと習合して全国的な広がりを見せたという説もあります。<br />
<br />
<br />
●“白山”修験道<br />
白山修験道の開祖・泰澄(たいちょう)は、白鳳十一年(682年)、越前国に生まれました。両親とも帰化系であったといいます。十四歳で十一面観音の霊夢 を見て以来、夜毎に家を出て、白山に面した越知山(おちさん)で修行を重ね、呪文(じゅもん)によって石を飛ばしたり、自分自身も自由に飛行したという逸 話が伝わっています。修験道の元祖・役行者(えんのぎょうじゃ)に匹敵するほどの超人的能力の持ち主だったようです。役行者が前鬼(ぜんき)と後鬼(ご き)を従えていたように、泰澄にも臥(ふせり)行者と浄定(じょうじょう)行者という弟子たち〈護法童子(ごほうどうじ)〉がいました。<br />
その泰 澄三十六歳の養老元年(717年)、夢枕に白山の神であるという女神が立ち、その導きによって白山の初登頂に成功したといいます。ちなみに、この女神は“ 妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)“といい、もとは“イザナミ神”だったといいます。そして、火口湖の一つである翠ヶ池(みどりがいけ)で祈っていると、 池の中から“九頭竜王(くずりゅうおう)”が現れ、それを見た泰澄が、本地(ほんじ)の姿で現れるようにいうと、“十一面観音”が出現したといいます。こ うしたことから、白山比咩(しらやまひめの)大神の本体はイザナミ神にして、かつ十一面観音であるということになります。〈神仏習合〉ただし、現在は、白 山比咩大神(菊理媛)、イザナギの神、イザナミの神の三柱の神が祀られています。<br />
また、白山は三峰を有しますが、それぞれの山に泰澄は、十一面 観音、聖(しょう)観音、阿弥陀如来(あみだにょらい)を感得したといいます。それらはやがて、白山信仰の三体の本地仏(ほんじぶつ)として崇敬されるよ うになるのですが、その白山修験の基礎は、透徹した霊眼の持ち主だった泰澄が築いたものなのです。
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2002-05-31T17:40+09:00
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無題
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_18.html
以下の順で書き込みを行っています。<br />
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。<br />
<br />
①産土さま(うぶすなさま)<br />
②七福神<br />
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)<br />
④お稲荷さん(おいなりさん)<br />
⑤八幡さま(はちまんさま)<br />
⑥庚申さま(こうしんさま)<br />
⑦山の神<br />
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)<br />
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)<br />
⑩天神さま(てんじんさま)<br />
⑪火の神々<br />
⑫白山神(はくさんさま)<br />
⑬熊野権現(くまのごんげん)<br />
⑭日吉神(ひえさま)<br />
⑮賀茂神(かもさま)<br />
⑯鹿島神(かしまさま)<br />
⑰不動明王(おふどうさま)<br />
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)<br />
<br />
ここの時点では、⑪火の神々 までの打ち込みを終えています。
道開き
2002-05-25T16:55+09:00
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⑪火の神々
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_17.html
●“火” -その秘められた不思議な力-<br />
古今東西を問わず、およそ宗教といわれるもので、火を崇拝の対象としたり、崇拝の対象にしないまでも、 何らかのかたちで、教義なり儀式なりに取り入れていないものなど、まず、無いと言っても過言ではないでしょう。それ程までに、火は神聖なものであり、神秘 的なものとされてきたのです。<br />
ペルシァのゾロアスタ-教(拝火〈はいか〉教)などはそれが特に顕著ですし、インドのバラモン教に端を発する密教 や修験道の修法“護摩(ごま、ホ-マ)”は、火の仲立ちによって仏と交信し、特に護摩の「本尊(ほんぞん)」とされる不動明王に火をもって供物を捧げ、煩 悩の一切を焼き尽くすとされるその力により、「厄災消除(やくさいしょうじょ)」、「心願成就(しんがんじょうじゅ)」を祈る儀式であることは広く我々に も知られているところのものであります。<br />
<br />
仏教伝来以前の我が国においても、やはり、火を神として祀り、尊いものとして敬う信仰がありま した。お祭りには“燎(かがりび)”を焚き、御神前には“灯明(とうみょう)”をともします。現在では仏教の盆の行事になってしまいましたが、古くから行 われて来ました“霊(タマ)まつり”の、先祖代々の祖霊を迎えて送る「神迎え(かみむかえ)」、「神送り」の儀式といったように、あげれば切りがありませ ん。<br />
出雲大社において、代々の国造(くにのみやっこ)の継承に当たって行われてきた「火継神事(ひつぎしんじ)」などは、火(ひ)を引き継ぐことによって霊(ヒ)を引き継ぐ、つまり、火によって霊統を引き継ぐ儀式が、宮司職の世襲に当たって、現在でも連綿と行われています。<br />
<br />
<br />
●火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)<br />
イザナギの神・イザナミの神二神が次々に神々を生んで、最後に生み出したのがこの“火の神”・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)、又の名を火産霊神(ほ むすびのかみ)、火之夜芸速男神(ほのやぎはやおのかみ)ともいう。女神・イザナミ神はそのために御陰(みほと)を焼かれて「黄泉(よみ)の国」へと神去 られた。 <br />
おのれの出産のために母神を殺す結果となり、またそれにより父神に十拳剣(とつかのつるぎ)で首をはねられるというまことに悲劇的な 神ではあるが、それがそんなに悲惨な印象を受けないのは、このことによって、新しい神、それも大変に重要な役目を持った神々が次々に生まれ、飛び出してき たからである。<br />
<br />
★生まれ出た神々の御名<br />
・火傷(やけど)して苦しみながらイザナミの神の吐(は)いた吐瀉物(としゃぶつ)からは「鉱山や金物の神」である“金山毘古(かなやまひこ)神”、“金山毘売(かなやまひめ)神”が生まれました。<br />
<br />
・糞(くそ)からは「粘土(ねばつち)の神格化で土器をも意味」する“波邇夜須毘古(はにやすびこ)神”、“波邇夜須毘売(はにやすひめ)神”が生まれました。<br />
<br />
・ 尿からは“彌都波能売(みつはのめ)神”、“和久産巣日(わくむすび)神”が生まれた。「灌漑(かんがい)用水の神」そして「若々しい生産の神」です。和 久産巣日神の子が伊勢神宮外宮の祭神“豊宇気毘売(とようけひめ)神”で、天照大御神の食事を整える「御饌津神(みけつかみ)」である。<br />
<br />
※これらの神々は“冶金(じがね)”、“窯業(ようぎょう)”、“農業”等における火の効用が暗示されている。<br />
<br />
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬った刀の血からも、死体の各部からも、多くの神々が生まれました。<br />
<br />
・まず刀の切っ先についた血から、“石搾神(いわさくのかみ)”、“根搾神(ねさくのかみ)”が生まれました。「岩石や根を裂くほどの威力ある神」です。次の“石筒之男神(いわつつのおのかみ)”も「岩石の神」です。<br />
<br />
・刀のもとについた血から、“甕速日神(みかはやひのかみ)”、“樋速日神(ひはやひのかみ)”が生まれる。これは「火の根源である太陽を称えた神名です。<br />
<br />
・次に、高天原第一の剛力の持ち主、“建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)”が生まれます。有名な出雲神話の「国譲り」のときに、抵抗した大国主神の子の“建御名方神(たけみなかたのかみ)”を屈服させた神です。その名は「勇猛な雷の男神」の意です。<br />
<br />
・ さらに刀の柄(え)についた血からは、“闇淤加美神(くらおかみのかみ)”、“闇御津羽神(くらみつはのかみ)”。この二神は「谷の水をつかさどる神」 で、「雨水を調節し、国土を潤し、草木の生育とすべての生き物の食料を豊に繁茂させる神」で、「竜神(りゅうじん)」であるともされています。<br />
<br />
※ 以上の八神は、刀剣の出来上がる様、つまり、鉄鉱を火で焼いて鍛え、できた刀剣を谷間の霊水につけて焼きを入れるさまを表したものではないかと考えられます。火の神の血が飛び散る様は、あたかも鉄を鍛えるときの火の粉を連想させます。<br />
<br />
・火の神の頭、胸、腹、陰所、左右の手、左右の足に、“正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)”以下「八柱の山津見神」が化生しました。<br />
<br />
※「火の神」の体から種々の「山の神」が化生する話は火山の爆発を意味し、血から「岩石の神」、「雷の神」、「水の神」などが化生する話も、火山の噴火を物語っているようです。<br />
<br />
<br />
●愛宕(あたご)神社<br />
京都は嵯峨(さが)の愛宕町にある愛宕神社は、“火伏せの神”として全国的に信仰されています。かつては“愛宕大権現(あたごだいごんげん)”の名で親し まれました。御祭神は“火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)”。もともとは山城と丹波との国境に鎮座し、「塞(さえ)の神」(禍をさえぎる境界の神さま) として信仰されました。よって、比叡山(ひえいざん)に相対して京都の西北(乾〈いぬい〉)の方向にそびえる愛宕山に遷座され、「都を火災から守る王城鎮 護の神」となりました。<br />
“塞の神”であった為に、地蔵菩薩(じぞうぼさつ、お地蔵さん)信仰と結びつき、神仏習合のなか、多くの修験者たちが、“愛宕山伏”として諸国を遊行して、「火伏せの神」として愛宕信仰を全国に広めました。<br />
<br />
<br />
●秋葉(あきば)神社<br />
静岡県周智郡春野町にある秋葉神社が本社で、御祭神にはやはり“火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)”祀り、江戸時代には、遠く関東地方からも秋葉参りの人々が訪れ、「火伏せ、厄除け(やくよけ)の神」として信仰されてきました。<br />
<br />
<br />
●三宝荒神(さんぽうこうじん)<br />
家の神の中で、「竈(かまど)神」に対する信仰はきわめて篤いものがありました。この神さまは、別名「オカマさま」といったり、「荒神さま」といったりしますが、この「荒神さま」が一般にはよく知られています。<br />
荒神さまとは、その名の通り、荒々しい火の神さまで、激しい験力(げんりき)を持つ神と信じられ、火伏せの力があることから、竈(かまど)の近くに祀られ ました。“三宝荒神”というのは「如来荒神、鹿乱荒神、忿怒荒神」の三身を持っているからで、仏典に根拠があるようですが、仏教とはまったく縁のない神さ まです。<br />
荒神さまは、とにかく霊力の強い神さまだからというので、「荒神墨(すみ)」と呼ばれる竈のスミを子供の額(ひたい)に塗っておけば魔 除けになるとされてきました。毎月晦日(みそか)の祭には、「荒神棚(たな)」を清めて、胡粉をまぶした松の小枝を供える習わしがあり、これを「荒神松」 と呼びました。また、竈を掃除する箒(ほうき)を「荒神箒」といって、普通の箒とは区別して神聖視します。<br />
荒神はまた、地神(じがみ)、氏神(うじがみ)とも考えられて一族で祀っている場合も多くあります。
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2002-05-25T16:55+09:00
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⑩天神さま
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_16.html
●受験祈願で賑わう“学問の神さま”<br />
天神さまといえば、いわずと知れた学問の神さまです。昨今の学歴社会を反映した激しい受験戦争もあり、入試 の時期ともなれば“天満宮(てんまんぐう)”の「絵馬掛け」は志望校と自分の名前と住所を書いた絵馬の奉納で鈴なりになります。これは“天神さま”こと菅 原道真(すがわらのみちざね)公(略して菅公〈かんこう〉)が、幼い頃から詩歌や学問に、人並みはずれた異才の持ち主だったことに由来します。<br />
菅公は、その才能ゆえに、宇多(うだ)天皇の寵愛を受け、右大臣にまで昇進しました。しかし、政敵であった左大臣の藤原時平の讒言(ざんげん)にあい、九 州の太宰府(だざいふ)に左遷され、無実の罪を晴らすことなく無念の内に五十九歳の生涯を終えたのでした。(よって、全国の天神信仰の総本社は「太宰府天 満宮」です。)<br />
天神信仰の起こりは、この道真公の死後、藤原時平一門を中心に京の都に打ち続いた天災や疫(えき)病といった凶事が、巷(ちま た)のシャ-マン(巫女、霊能者)達に下った託宣(たくせん)によって、道真公の怨霊(おんりょう)によるものであるとされ、その霊を鎮めるために北野に 社殿を建ててお祀(まつ)りしたことに始まります。この社が北野天満宮です。<br />
<br />
★牛は天神さんの“神使(みつかい)”<br />
・一般には、道真公が乙丑(きのと・うし)の年に生まれたことに由来するとされています。<br />
・一説には、道真公の亡骸(なきがら)を運んだ牛車が、ある場所で動かなくなり、その場所を墓所と定めたといわれます。それがなぜか都府楼の北東、いわゆる丑寅(うしとら)の方位であったからとも云われています。<br />
・道真公の、農作業に勤しむ牛たちへの真摯(しんし)な慈愛によるとか、あるいは牛の鳴き声で刺客から逃れた逸話などもあります。<br />
・天神参りは「丑(うし)の日」がよいとされています。<br />
※道真公を祀る神社の多くには、境内に居座する“寝牛(ねうし)”像があります。この寝牛の体のうち、自分が患っているのと同じ部位を撫(な)でると病気が治るとされています。また、頭の部分を触ると知恵がつくとされています。これらを“撫で牛”と言います。<br />
<br />
<br />
●天神信仰の起こり<br />
★菅公の生い立ちと生涯<br />
道真公は、845年、代々続いた学者の家に生まれました。もともとは土師(はじ)氏といって、土師器(はじき)の生産にあたり、祭事葬送に関わる氏族で あった。その菅原家が、儒学の家となり、平安初期には「菅家廊下(かんけろうか)」という官吏(かんり)養成学校をも経営しました。<br />
道真公は、 幼い頃から衆に秀でた秀才であり、白楽天(はくらくてん)の再来と称えられました。また、弓遊びのうまいことでも世間を驚かせたといいます。道真公には全 く野心などなく、つねづね文章学者をもって自らを任じ、右大臣昇進後も三度に渡って辞表を提出しています。当時、朝廷では藤原氏などの貴族が、血筋や家柄 を後ろ盾に権勢を奮っていました。一介の学者が大臣にまで昇進するなど異例のことであり、道真公自身、あらゆる中傷を受けました。 <br />
そして、危 惧していたことが現実のこととなり、大臣就任3年目に、突然の太宰府権師(だざいふごんし)という役職への左遷が行われました。文字通り一家離散の運命に 見舞われ、息子たちも皆、島流しにされました。菅公の太宰府での生活も惨めなもので、住まいは荒れ放題、食べる物も滞るありさまでした。このため、老境の 道真公は健康をむしばまれ、左遷からわずか二年あまりで波乱に富んだその生涯を終えたのでした。<br />
<br />
東風(こち)吹かば 匂(にお)いおこせよ梅の花<br />
あるじなしとて春な忘れそ<br />
<br />
これは都を去るにあたって道真公が作った、あまりにも有名な歌である。なほ、菅公を慕って京より太宰府に飛来したというのがこれも有名な“飛び梅”の木である。<br />
<br />
★凄まじかった菅公の“祟り(たたり)”<br />
菅原道真公は、今日では学問の神として仰がれているが、没後当初は激しく祟る“怨霊(おんりょう)神”として畏怖され、その魂を鎮めるために神として敬わ れたのでした。それは、道真公の死後、藤原家一門の人々が次々と不幸に見舞われたこと、又、都に天災や疫病が頻発したことから、非業の死を遂げた道真公の 祟りではないかとされたからです。<br />
<br />
※御霊(ごりょう)信仰<br />
平安時代、人々の間には、天災や疫病などの頻発は、政変などで亡くなっ た人々の霊の仕業であるとする考えが広まっていました。よって、怨みをのんで非業の死を遂げた人々の霊を慰め、祟りをまぬがれようとする“御霊会(ごりょ うえ)”が、盛んに行われていました。なぜ、その御霊が政変などで亡くなった人たちに限られたのかといえば、不特定多数の人々に災害をもたらす以上、その 霊魂も特別なものでなくてはならないと考えられたからでした。<br />
<br />
★民間の巫女(シャ-マン)たちに下りた菅公よりの神託(しんたく)<br />
・ 道真公の没後四十年目にあたる九四二年、右京七条坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)という巫女に道真公からの神託があり、そのお言葉により“火雷(か らい)天神”として祀られたのが天神信仰の始まりとなる。その五年後の九四七年、北野へ遷して社殿を建立したのが今日の“北野天満宮”の起こりである。<br />
・同じ頃、近江の国の比良社の祢宜(ねぎ)・神良種(みわよしたね)の子で太郎丸という者にも同様の菅公よりの託宣があり、、良種は北野朝日寺の僧・最鎮(珍)と語らって社殿を建立したという。<br />
<br />
★民衆の人気を集めた「北野天満宮」<br />
王朝時代、人々を深い恐怖に陥れた御霊(ごりょう)。人々はその鎮魂の営みとして、御霊会(ごりょうえ)を催しました。八五三年には、それまで民間で行っ ていた御霊会を、朝廷自らが神泉苑(しんせんえん)で執行した。これが今日の上御霊(かみごりょう)神社の起源である。もちろん、その後、火雷天神(菅 公)も上御霊・下御霊両社の祭神に加えられた。<br />
ところが、菅公の場合は、その神号が“天満大自在天(てんまんだいじざいてん)”とあるように、 単なる御霊や雷神を越えるものであつたことから、北野天満宮は民衆の神として両御霊社をしのぐようになった。やがて、「二十二社」の一つとして正式に“官 社”となったのでした。<br />
<br />
<br />
●もう一つの天神信仰の系譜<br />
★牛を殺し、雷神に捧げる祭り<br />
この北野では、天満宮創建以 前に、「殺牛祭神」と呼ばれる祭祀が年ごとに行われていたという。それは干ばつに備えて、聖なる牛を殺し、その角が付いている頭を天に捧げて“雨乞い”を するというもので、その起源は古代オリエントに端を発し、中国を経てはるばる日本に伝わったとされています。<br />
やがて、「牛殺祭神」の習俗は、祟りを鎮める目的へと変じていきます。そして、この牛の信仰は、中国から渡来した陰陽道と深い関わりを持つ“牛頭天王(ごずてんのう)”の信仰と結びつきました。<br />
<br />
※ 牛頭天王 この当時、頻発していた疫病をつかさどる神は牛頭であるとされ、この神 を抑え込み、屈服させるため、より強 大な力を持つ牛頭天王への信仰が台頭しました。よって、「牛頭天王」を祀る“祇園社(ぎおんしゃ)”が建立されました。須佐之男命(すさのおのみこと)と 同一神とされます。<br />
<br />
<br />
●天神の神格<br />
★仏教との関わり<br />
天神信仰が広く民衆の間に浸透していったのは、“天神講(こ う)”の拡がりと、「天神縁起(えんぎ)の絵巻物(えまきもの)」が創られ、一般に流布されたからである。なかでも、『北野天神縁起絵巻(えんぎえま き)』はつとに有名で、さまざまなエピソ-ドを通じて菅公の神格が現された。<br />
<br />
・『北野天神縁起絵巻』第五巻<br />
菅公は天拝山で無実の 罪を祭文(さいもん)に仕立てて、「七日七夜」もの長い間、「天道」に訴え、祈り続けていたという。その祈りによって、菅公は「天満大自在天神(てんまん だいじざいてんじん)」となる。この名前は神仏習合思想によるものであり、「天満」は「天魔(てんま)」を慰撫(いぶ)して善神「天満」に変じようとした ことにより、「大自在天神」とは、「破壊と創造のヒンドゥ-教の神シヴァ神」の仏教化した神格のことである。まさにこの「暴悪と治療の両面」こそが、天神 信仰の核心なのです。<br />
<br />
・『北野天神縁起絵巻』第七巻<br />
吉野の金峯山(きんぶせん)の僧、道賢上人日蔵(どうけんしょうにん・にちぞう)が<br />
「笙 (しょう)の岩屋」にこもった時の物語である。日蔵が岩屋で千日行(せんにちぎょう)に励んでいたところ、ある日高熱を発し、息ができずに絶入してしま う。その瞬間から日蔵は“六道(りくどう)巡り”の夢を見る。そこで、日蔵は「太政威徳天(だじょういとくてん)」と名のる道真公の霊に会う。つまり、太 政大臣・菅原道真公が変幻した姿で、密教(みっきょう)の五大明王の一人であり、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身とされている太威徳明王(だいいとく みょうおう)と一体となっていたというのである。<br />
文殊菩薩は、仏典を編纂し、仏智(ぶっち)の結集を果たしたとされる「叡知の仏」である。そのような「学徳の文殊」、そして、青い水牛にまたがる猛々しい太威徳明王となって現れる「忿怒の文殊菩薩」の力は、天神と酷似していたのである。<br />
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★“宮地(みやじ)神道”に出て来る菅公の逸話<br />
土佐郡潮江村(高知市天神)の「潮江天満宮」の神官・宮地堅磐(かきわ、水位)が唱えた平田篤胤(あつたね)の神道説を継承した玄学(道教)色の強い神道説。<br />
水位はその父から教わった脱魂法によって、十歳頃から神仙界に出入りしたという。顕界(うつしよ、この世)と幽界(かくりよ、あの世)との間を自由に往来 し、大山祇神(おおやまづみのかみ)の寵愛を受け、その取り持ちによって、ある神界の主宰神という地位にあった道教の通称「少童君(しょうどうくん)」= 少彦那(すくなひこな)神に謁見(えっけん)することができるようになり、五十三歳で帰幽するまで数百回にわたって神仙界へ往来したとされます。<br />
幽界(かくり世、神界・霊界・幽界を含む)が八つの層から成っていて、その一つ一つが数百界に分かれているという。水位の『異境備忘録(いきょうびぼうろ く)』には、歴史的人物がどの霊界にいるのかがしめされている。それによると、菅公は神仙界に三つある刑法所(裁判所と刑務所が一つになったもの)の一つ の長官をしていたという。<br />
高地の神仙道本部、そして大阪堺市に本部を置く古神道仙法教は宮地神道を継承している教団である。<br />
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★天神は“天(あま)つ神”? -日輪(にちりん)信仰との関わり-<br />
「天神」は名前の通りそのままに、“天道”の神という性格を持っています。伊勢斎宮から出雲の須佐神社に至る“太陽の道”の線上に、天満、天神、菅原、須 賀の名の付く神社が多くあり、菅公が祀られていることと、さらに、“天神社”を名のる神社には、須佐之男命(すさのおのみこと)や天照大御神(あまてらす おおかみ)をご祭神としていることがあるからである。つまり、“天神さま”の根元には、天つ神である天照大御神と須佐之男命が控えていることにもなるので す。<br />
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●天神信仰の移り変わり<br />
怨霊神(おんりょう神) 〈祟り(たたり)神〉<br />
↓<br />
火雷天神(からい天神) 〈雷神・農耕神〉<br />
↓<br />
天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)<br />
太政威徳天(だじょういとくてん)<br />
〈学問の神、慈悲救済の神、正直の神、誠心の神〉<br />
〈無実の罪に泣く者を冤(えん)罪から救う神〉<br />
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★渡唐天神 鎌倉時代後期から、禅宗の影響による。死後三百年、菅公の霊魂は、中国の高僧にまみえ、歓迎されたという言い伝えで、唐服をまとい梅花一枝をたずさえた渡唐天神の図柄は広く一般まで広まった。<br />
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★寺子屋と“天神講(こう)”<br />
江戸時代、寺子屋の発達により、子供の学問の神さまとしても崇められるようになった。例えば、寺入(入学)する子供を父兄が連れて、天満宮や氏神に参拝するといった風習が、全国的に広がったのである。<br />
子供の楽しい年中行事の一つに“天神講”がある。地域によっても違うが、一月から三月までの間に行われる。前の晩、席書きした「奉納天満天神」の小旗をうち立てて、学業が上達するように祈った。<br />
天神講や天神さんの縁日が、月の二十五日に催されるのは、菅公の生誕日と亡くなった日がそれぞれ二十五日だったことによる。<br />
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★七歳までの“守り神”<br />
あの有名な童謡『通りゃんせ』の歌詞に、「この子の七つのお祝いに」とあるよう、昔は子供は七つの時期を迎えて半人前の大人になるとされていた。天神さま はその時までの“子供の守護神”として、また、“子供の未来を保証する神”として民間に浸透していった。また、「行きはよいよい、帰りは恐い」という歌の 文句は、一般に学問の険しさ、厳しさを言い表したものだという。
道開き
2002-05-24T21:25+09:00
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告!!!!!
http://michi-blog1.webdeki-blog.com/entry_michi-blog1_15.html
以下の順で書き込みを行っています。<br />
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。<br />
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①産土さま(うぶすなさま)<br />
②七福神<br />
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)<br />
④お稲荷さん(おいなりさん)<br />
⑤八幡さま(はちまんさま)<br />
⑥庚申さま(こうしんさま)<br />
⑦山の神<br />
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)<br />
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)<br />
⑩天神さま(てんじんさま)<br />
⑪火の神々<br />
⑫白山神(はくさんさま)<br />
⑬熊野権現(くまのごんげん)<br />
⑭日吉神(ひえさま)<br />
⑮賀茂神(かもさま)<br />
⑯鹿島神(かしまさま)<br />
⑰不動明王(おふどうさま)<br />
⑱蔵王権現(ざおうごんげ<br />
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ここの時点では、 ⑨須佐之男命(すさのおのみこと)までの打ち込みを終えています。
道開き
2002-05-21T16:35+09:00